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一瞬の永遠はあといくつあるだろう

自分の世界観に影響を与えるような、一瞬の永遠に何度出会ったことあるかで人生の楽しさみたいなのがちょっとは変わると思っているこの頃、どうもokkaaaです。

一瞬の永遠。演劇の思い出で言うと一つだけある。
いつか、学校の校外学習で観に行った尾崎豊の公演のワンシーンが忘れられず、いまだに思い出すことがある。尾崎豊の最期の瞬間を描いた象徴的なシーン。多感な中学生にとっては衝撃的なシーンで、多少その後もクラスで話題になってたことを思い出す(とは言ってもおどけて真似をしてみたりする程度の話だったが)。なぜいまだに覚えているのだろう。クラスで話題になったから?いや、たぶんちがう、(と思う。)これは仮説だけど、リアリティーのない衝撃的なシーンなのに、そこに本物があったから。その本物とは言葉にはできないものだが、そのシーンの本物を強いて言葉にするなら、身体が衝動に打ち負ける時、人間はああなるのかもしれないという抽象的なイメージとでも言おうか。そういうものが脳内に住み着いていて、離れない。そんな出来事ってあるよね。

そんなこんなで演劇を劇場で観に行くのはかれこれ、中学生ぶりぐらいで、結構ワクワクしてるおれ。観に行ったのは、村上春樹原作の「舞台・ねじまき鳥クロニクル」。

バイブルになりつつある「映画ドライブ・マイ・カー」が演劇の話なので役者の芝居、作品のテキストから放たれる、”本物”に目を凝らすみたいなことは多少なりとも思考回路のベースはできていたので、退屈することはないだろうなとは思ってた。

というかドライブマイカーは、暇さえあれば音楽のように再生して、今やほぼセリフを映像と合わせて言えるぐらい観ている。(まともに人生を送っていれば、ショーペンハウエルにだって、ドストエフスキーにだってなれたのに!)

そんなこんなで村上春樹作品を通じて演劇を位置付けてきた初心者が「舞台・ねじまき鳥クロニクル」をみてきた。噂にはきいていたが、3時間の公演は一瞬で終わり、気づけば会場はスタンディング・オーベーション。ありがとうと言う気持ちが止まらなかった。ああ、この気持ち、言葉にできたらいいなあ、そして誰かに話したいなあと、、ぶつくさ、東京から鎌倉への地味に長い帰り道に思って、ここに記している。

ねじまき鳥の壁抜けと言う話はとても有名だが、正直、その概念を僕は全てを理解できずにいたと思う。(もちろん今でも全ての感覚を共有したとは思ってはないけれど)
井戸のように深く自分が内部に引き下がることで世界と繋がるという思考回路は音楽を通じてなんとなく言語を共有している感覚はあった。例えば、僕がVoyageを作った時の話。詩人の真似でもいいから自分が好きなものを作り続けることで、日本にいるまた世界にいる詩人志望と意識を共有し、そこには空間も時間もなく、未来につながる意識の塊みたいなものを、ある時代の流れの一部として据え置けるということ。そしてその流れの一部に自分が存在できるということ。自分をギリギリのところまで普遍化した先につながる”何か”が見えてくるという、そういう感覚の話。

自分を普遍化する井戸の思考回路はなんとなくいいなと思ってたし、IDOという作品で僕も曲にしているのだが、「壁抜け」という概念はさっぱりだった。壁抜けについては村上春樹のロングインタビューを引用してみる。

(下記以降本編のネタバレ含みます)

僕にとって 『ねじまき鳥クロニクル』のなかでいちばん大事な部分は、「壁抜け」の話です。堅い石の壁を抜けて、いまいる場所から別の空間に行ってしまえること、また逆にノモンハンの暴力の風さえ、その壁を抜けてこちらに吹き込んでくということ、隔てられているように見える世界も、実は隔てられてないんだということ、それがいちばん書きたかったことです。どうして「壁抜け」ができたかというと、僕自身が井戸の底に潜っていったから。深く潜って、自分をどこまでも普遍化していけば、場所とか時間を越えて、どこか別の場所に行けるんだという確信を得られた。「僕の言う「歴史」は、たんなる過去の事実の羅列でも引用でもなく、一種の集合的記憶としての歴史です。たとえば、ノモンハンでの間宮中尉の強烈な経験も、ただの老人の思い出話ではなく、僕の中にも引き継がれている生の記憶であり、僕の血肉となっているものであり、現在に直接の作用を及ぼしているものです。

新潮社/ 2010年8月。「 『考える人」村上春樹ロングインタビュー


"隔てられているように見える世界も、実は隔てられてないんだということ"

この壁抜けという概念が今回の舞台でやっと自分の中で理解ができた。それは壁が動く舞台演出、実態ではない身体性を表現し役者と役者の間を行き来するように動き回っていた”踊り”、間宮中尉の20分の独白、などなどいろんな視点からも語れるだろう。。そう、この”隔てられてるようで隔てられてない”を超最高な演出で三時間描かれていたように感じた。

今あげた演出全部、全部最高すぎて、ここで語りきれないのですが、象徴的だった間宮中尉の強烈な独白20分から。

ねじまき鳥さん好きな読者には伝わるだろが、あの長ーい間宮中尉の話をどう演出するか、期待しますよね。とにかくね、そこがもう最高だったんです。
なんと20分ほど(パンフによると)の独白。間宮中尉の衝撃の体験談は時空を超えていた。声色がしゃがれたおじいさんの声からやがて艶のある声に変わり、舞台の上の机や椅子は伸びたり縮んだり、動き出す。伸びる影とともに、実体のない身体が歪んだ空間を表現するように、コンテポリーダンスが始まる。そしてそれと呼応するかのような楽器隊のアグレッシブで境界線を溶かすような生セッション(いや、そう今回ほぼ生演奏なんですよ音楽)。視覚的な歪みも音楽のリズムも全てが1秒1秒躍動し続け、一瞬一瞬が儚い。やがて間宮中尉の体も逆さになり、舞台上の演者と観客はその痛みを共有する。そして間宮中尉の根源的な悪のようなものが観客に渡っていく瞬間だった。

そしてこの痛みは終盤になっていくにつれて増し続ける。間宮中尉の痛みはトオルの妻を亡くした痛みとリンクし合う。そこには隔たりはない。
ノモンハンの歴史の話は、歴史の一点としてではなく、個人にわたることで、隔たりなく流れていった。

"ノモンハンでの間宮中尉の強烈な経験も、ただの老人の思い出話ではなく、僕の中にも引き継がれている生の記憶であり、僕の血肉となっているものであり、現在に直接の作用を及ぼしているものです。"

その痛みは舞台上では動く壁として表現されていく。動いた壁の中から間宮中尉が姿を現し、痛みを共有する。それは実在する空間ではなく、あくまでもトオルの中の世界の一部として。

間宮中尉の独白が井戸によって壁抜けした瞬間の美しさや考え方が今後抜けることはないだろうなと思うし、その発見は自分にとって新しいもので、ようやく壁抜けと言う概念を身をもって体験できたというか伝えてもらったと言う気持ちになった。

壁抜けした先は、ドライブマイカーでもあった”他者との理解不可能性”とどう立ち向かうかと言うテーマにあった。妻のクミコが失踪する前のセリフ、"時々本当なのか本当じゃないのかわからない時がある~できる限り私はあなたに想いを伝えようと思ってる"から、曲「受け入れようすべて」につながっていく流れ、あれもうやばすぎ。(急に語彙力消える)

クミコの他者と自分の感情をそっくりそのまま伝えることができないと言う葛藤が、それまでのクミコの痛みを象徴するシーンと重なり、そして、あの芝居から放たれた感情にぐさっときてしまって、とてもとても、苦しかった。

というわけで演出や物語について良かったことを話すとキリがないが、多分、この痛みを共有した際にうつったトオルの井戸の葛藤のシーンや後半の壁抜けする1時間について、というか時間の感覚がおかしくなってしまったあの瞬間たちを忘れることはないだろうなと思う。というか、諸々のシーンについて考えないわけにはいかない。

メイが「死について考えた事ある?
考えた事ないならこんなふうに考えないさい!」と井戸の蓋を閉めてしまったように。


okkaaa

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