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学びを自分事にする

学校で学んでいることを自分事に子供たちはできているのでしょうか?
思った以上に、自分事にはなっていない、というのが私の答えです。

ではなぜ学びを自分事にしなくてはいけないのか?
それは、学ぶということは、受動的なものではいけないから。

※受動的・・・他からの動作・作用を及ぼされる様。自分の意思からではなく、他に動かされている様。

「学ぶこと」というのは、本来は、もっと楽しいことです。だって、わからなかったことがどんどんとわかるようになってきたり、どんどんと自分の知識が増えたりするから。

でも、高学年になればなるほど、子供たちの学びは、受動的になり、
「また国語?嫌だな」
「算数?計算が面倒くさいんだよな」
・・・このような姿になってはいないでしょうか。

これは私の見てきた子供たちに見られた高学年での姿です。

低学年の子供たちを見ていると、みんなイキイキと学びに向かっています。

『たんぽぽのちえ』を学んでいると、道端に咲いていたたんぽぽを拾ってきて観察したり、生活科で育てた朝顔を思い出して、「あ、たんぽぽと同じだ」とつなげたり・・・

実にさまざまに学んだことを繋げている姿が見られます。

このような子供たちは、「先生、次の国語の時間はどんな勉強をするの?」と楽しそうに聞いてきます。ただ受動的に、国語の時間を過ごしている姿はどこにもありません。

「学びを自分事にする」って一見、簡単なようで、実はかなり難しいことです。
「学びを自分事にする」ために、私たち教師は様々なことを行っています。
例えば、算数の時間、実際にペットボトルに水を入れ、子供たちに水のかさを計らせたり、問題文に工夫を加えたり・・・

このように教師は、子供たちの学びが、どうすれば自分事になるのか、日々試行錯誤していると思います。

そんな私が最近考えていることが、説明文の授業改善です。
これまでの私の説明文の指導は、「文を3つに分けましょう」「要約しましょう」「この中で筆者の一番伝えたいこと(要旨)はなんですか?」など、教師側が発する発問が多く、子供たちにとって、あまり学びが自分事になりにくかったのではないだろうか・・・と考えているのです。

もちろん、上記のような発問が、無駄だと思っているわけでもなく、説明文を教えていくときには、大切な発問です。

おそらく、このような状態の時には、
  教師    >   子供
教えたいこと    学びたいこと

がこのような状態になっているのではないだろうかと考えているのです。
でも、できれば理想は、

 教師    =   子供
教えたいこと    学びたいこと

このような状態になるのが理想です。そうなるために、学びを自分事にすることが大切だと考えているのです。

だから、『たんぽぽのちえ』の授業では、2時間、「たんぽぽ調査隊になって、たんぽぽの疑問を解決しよう」と設定しました。

まずは自分の中から生まれた疑問(問い)を、解決してみるのです。

疑問→解決(本で・辞典で・予想で)→自分なりの答え

このような手順で、まず解決したい疑問を1つか2つに絞り、その後、解決を図るために、本や辞典などで調べたり、自分で考えて予想してもよい、というように決めています。

まずは、一人解決→次に、疑問が同じ友達と、グループ解決
このように設定し、2時間、疑問調べの時間を設定しました。

理科の学習ではないのに、どうしてこのような時間を設定するの?
多くの人は、そう思うかもしれません。でも、この時間を設定する意味は、
「学びを自分事にする」ためなのです。

このような活動を設定すると、子供たちは、たんぽぽがもっと自分の身近な学習材になり、もっと知りたい、もっと考えたい、と興味を持ちます。

このような状態になると、あとは、以前のように、「たんぽぽにはどんなちえがあるのかな」「いくつちえがあるんだろう」などと発問しても、受動的に学ぶ子供たちの姿は見られません。

学びを自分事にするためには、教師の仕掛けが大切なのです。でもゆくゆくは、自立して学べるように、だんだんと教師の出番は少なくなっていくはずです。

自転車に乗るまでに、後ろで支えてあげる親のような、そんなイメージです。
だんだんと手助けを少なくしていく。そして自分で自転車に乗れるようにする。

そのようなイメージを持って、子供たちの学びを支えるのが大切かなと私は考えています。





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