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花の進路


花の高校生。

私は当時、看護科に所属していた。

意味などない。


本当は高校には
行かない予定だった。


やりたいことなんて
40歳くらいになったら自ずと分かるだろう。

したくないことをすることは
やりたいことをしないのと同じだ。

中3の進路相談はそうやって
テキトーに交わしてきたが、

今思うと生徒史上一番俯瞰的に物事を見れていたんじゃないかと思う。


不思議だがあの頃は
焦りがひとっつもなかった。

というか
何をしていたか覚えていない。

高校受験シーズン。
急にスカートを膝丈にしろと先生がうるさくなったが、
当時zipperというファッション雑誌にハマっていた私は
膝下ブームだったので全く校則に反していなかった。

ただ、スカートのホックを外して
極限まで下げて過ごしていたら

丈が長すぎると注意され、
短いスカートを渡され無理やりはかされたことを覚えている。


世の中不思議だ。

規定とはなんだ。

狂っているのは私なのか?

そんなものに沿った場所で採用されてもひとつも嬉しくない。
私はアーティストでもモデルでもないけれど、
それが社会というならば
そんなフェスにお金を払う必要はない気がする。



高校なんてどうでもいい。


最後の進路相談だった。
担任が、


〇〇(親友)が××高校の看護科に行くで。
okiも看護師になればええがな。


そう言った。


今日飲み行くけど空いてる?
くらいの感覚だった。

勿論二つ返事で誘いにのることにした。



受験勉強など一切しなかったが
幸か不幸か、
定員割れでアッサリ合格した。


この高校の看護科は5年一貫校だった。
そう、5年ある。
無条件で友達と5年遊べる。

なんてラッキーだ!!!



こうして始まる地獄の高校生活を
知る由もないまま
キラキラの少女漫画のイメージだけを握りしめて入学した。


看護科は普通科に比べ、
普通科目が格段に少ない。
ただその分、専門教科が鬼のようにある。

基礎看護、循環器、呼吸器、母子、解剖学、、、漢字が多すぎる。

人間、横文字の分泌物が多すぎる。
アンノーンのようなアミノ酸結合の暗号の数々。

古文や数学が可愛く見えた。





あぁ、つまらなさすぎる。



普通科目は寝られる時間。
世界史は子守唄のようだった。


看護科目は見計らって遊ぶ時間。
両耳にイヤホンをしてジャパハリネットを聞きながら、
クラスの友人とマリオカートで通信対戦して遊んでいた。



どうにか面白がる努力をしたが、
想い儚く、鬼の実習が花の高校生活を灰色にしていった。

ベッドメーキングから始まり、
水銀の血圧測定、滅菌消毒、洗髪、清拭、、これに加え腱鞘炎を通り越す程の必携に追われる日々。

放課後遊ぶ暇が
面白がれる現場が一寸とない

当然補習組となったがこれが唯一の救いだった。
放課後の実習室のベッドを走り回り、
実習着を変に着て、
模型で性教育しながら
恋愛話に花咲かせた。

あれがなかったら感情はとうに消えていたと思う。


実はこの頃から、
変な違和感があった。

解剖の教科書を見ると、
どうやら目を伏せてしまう癖がある。

身体の断面図を見ると気分が悪くなる節があったのだ。


……。

とはいえ時間は止まらない。

なんとか2年生になり、
実際に病院に行っての実習が始まった。


そして初日。
救急搬送と整形外科だった。

あの変な違和感が形となる。

釘が手の甲から貫通したおじさんが救急車で運ばれてきた。



その瞬間、

私は気を失った。



目が覚めると
運ばれてきた患者の救急搬送のベッドで私が寝ており
釘のおじさんは椅子に座っていた。

釘おじさんが、

大丈夫?

怖かったね、ごめんね。

と声をかけてくれた。








涙がこぼれた。















こんな日々が毎日続くのかと思うと

ゾッとした。













お次は婦人科。
妊婦さんと時間を過ごしていた。

程なくして様子がおかしくなってきた。

陣痛。

痛がる妊婦と共に

私も運ばれた。



目が覚めると
さっきまで妊婦さんが寝ていた出産の前室で寝ていた。

見覚えのある病院の天井を見て
また涙が溢れた。

どこか少しお腹が痛い気もした。

出産は無理だと悟ったのもこの日のことだ。










追い討ちは透析
そこには15人ほど患者がおり、
それぞれが血液を送っている。

薄々お気づきかとは思うが
私は数分後、
透析のベッドで患者と共に過ごしたことは言うまでもない。





















もう無理だ。


















出席数と実績が割に合わない。
先生が頭を悩ませた結果
私の夏休みは病院補習に当てられた。

眼科と小児科で
安静に過ごし無事単位を獲得した。



あのまま退学にしてくれればよかったと
心から思えている。



それほどまでに
限界を感じていた。





残念なことに3年生になった。


骨折した患者の清拭が私を待っていた。

カーテン越しから
時折、唸り声が聞こえる。

カーテンを開けながら
耳と視界が遠くなっていくのが分かった。



そのまま病室で気を失った。










こんな日々が3ヶ月ほど続いた。











地獄のような日々だった。

慣れだと聞いていたが、
聞いていた話と違うじゃないか。

震えが止まらない日々。
家に帰ると終わりのない必携やアセスメントに追われる。

右手にボールペン
左手にはタバコ

どっちがどっちか分からなくなってくる。

涙でノートが滲んだ。


そして
身体と心が大爆発した。


激痩せして
親が私にちゃんと料理を作っているかしっかりめに看護の先生に怒られていた。


授業中動悸が止まらず、
呼吸が苦しくなり
そのまま病院送りとなった。


生きる為のケアをする場所で
その青春の真っ只中で
危うく死にかけた。


看護師さんの凄さを肌身
いや、心から痛感した。


私には

絶対なれない。


結局、
高卒の単位こそ貰えたが
看護師の資格はもとより
普通科目すら1ミリも頭に残らないまま5年を打ち切り、3年で卒業を迎えた。





多分、私という人間から一番遠い学科だったと思う。

もし時が戻るのなら
やっぱり高校には行かないと誓う。


なんというか、
我を忘れてしまうほど
羽目を外すのが学生時代なのだと思っている。

できるのなら
川沿い自転車デートとか
彼氏の部活待ちとか
夏休みの淡いピンク談とか
隣町の高校仲間とのオール飲みとか
そんなんで笑い倒して
そんなんで気絶したかった。



あれから十数年。
大人になった今でも思う

興味のないことには恐らく
そこに苦手があるからなのだと思う。

ただ、苦手は時として長所にもなる気もする。

大抵自分の隠したい部分が
本来の輝きだったりするからだ。

そういうこともある。
そんなことも確かにある。


でも、だからといって
出来ないことを出来るようになる必要はやっぱりない気もしてしまう。

やりたいことを
やりたいと思った時にやればいい。

そのタイミングが70歳でもいい。

で、違ったんなら即効やめたらいい。

無論、趣味や好きなことは
無駄にお金がかかるものだが
それで稼げなくてもいいわけで。

フリーターでも65歳からどうやって生きるかを考え実行し続ければどうにかなると思う。
何も考えず社会保障に守られた社員で居続けても果たして面白いのだろうか。

きっと下手くそでもDIYはしていい。

金にならなくても文章を書いていい。

本当に勉強したくなった頃に大学に行けばいい。

それしか見えなくなった頃に
専門学校に行けばいい。

30を過ぎたからといって、やれ結婚、やれ貯金、やれ保険に不安にならないでいい。

明日はくる。
もっと絶望することが起こる。

なんとなく付き合うよりも、
好きなものを守り抜いた方がいい

期限はとうに切れていても
お国の支払いはできる。

最期看取ってくれるパートナーに
死ぬ間際出会えればいいのだから。


自分の人生だ。

ひと息もふた息も
溜めた息を吐きながら

一速も二速も落として
法定速度ギリギリの低速度で

あぁでもないけどこぅでもない

とクソ文句を垂れながら

それはたいぎなけど
これもめんどくせぇと

のらりくらり。

夢も悟りも希望も
今はまだこの手の内に

全てを投げ出したように見せかけて
48歳

ボケたか本当か
分からないような巧妙な語りで
82歳

元気玉ぐらいの自我を
ために溜めまくっていざ。

もう誰も
見向きもしなくなったその頃に



ロン。


以上です

oki

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