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天で才な月



絵が好きな方だ。
描くのも鑑賞するのも好き。
工作やDIYも好きだ。

ただ、
私の作り出すそのどれも
そこに込めた気持ちと
出来上がった作品との間には

大きな溝がある。


というか、

ギャップがありすぎる。



騒ぎ、掻き立てたはずの
想像力と創造性と絵心は
数分後には集中力と共に消えているのだから不思議だ。

何故だ。







実家に帰った時、
YouTubeを見ながら
ひとりで椅子を作ってみたが、

インパクトとビスが
ひとつもいうことを聞いてくれなかった。

君たちは
どっちに行きたいの?

刺しては抜いて
刺しては抜いて

どんどんひび割れていく木材。

案の定、指に刺さった。

得意のテキトーで
通常の2倍のビスを打ちつけてやった。


一日かけて、
汗だくになりながらようやく作ったそのボロボロの椅子は、
父が座った瞬間に

粉々になった。



数分で元に戻してくれたが、
使えない台として
軽めの植物を飾ることになった。















気を取り直す。















そ、そ、そうだ、

え、絵も好きだっ!

いや、絵本が好きだ。


短い優しい語りと
温かい絵に魅了させられる。




中でも、

天竺鼠川原さんの
「ららら」
という絵本が大好きだ。




恐らく上記に見られる要素はあまりなく、
奇天烈で不思議な絵と
摩訶不思議な語りで埋め尽くされている。


何がと言われるとその一切が分からないのだが、
ズンっと心に来るものがある。


今までに感じたことのない、それはそれは不思議な感覚。
とても素敵な絵本だった。



魅了とはこれほどまでに
角度のないもので出来ているのか。
















天才は桜木だけだと思っていたのに。















中学生の頃は、
現実を見ながら
そこに憧れと妄想を抱くのが好きだった。

というか癖だった。


スラムダンクに憧れてバスケ部を眺める日々。

コーチは本当に現役当時の尖った安西先生だった。



"ダッシュ、100本。"


ドスの効いた声が体育館の地を這う。


3年の先輩が河田と高砂に見え
2年の先輩は清田に見え
1年には小さめの遠藤とりょーちんがいた。


こうやって眺めている時も
気分は水戸と大楠だった。

私はあの桜木軍団が好きだ。

その平成とはかけ離れたシルエットと
物語の展開に妙に響いてくるあの渋さ。


私は心のどこかで、
あの桜木軍団のように
主体でありながらひっそりと
その物語の地盤をくっきりと彩っていたかったのだと思う。


主役が際立つ空間。
その空間づくりのキーマンに
憧れていたのだと。



こうやって
漫画やアニメ達は
絵本や絵画達は

妄想を通して

私という何かに
刻一刻と近づけ、導いてくれているのだと思う。



















しかし、時は20代も真っ只中。
我こそが天才なのだと
我こそこの世のNo. 1なのだと
特技や趣味に高飛車になりたいものである。















そんな頃。
ふと、
絵を描きたくなった。

その、"ふと"が
私の天才に火をつける。


独創性に欠けることを知っていたので、
好きな写真を模写することにした。



気分はバンクシー。
気分はレオレオニ。












描いてみた。



描いてみた


書いてみた



書いてみた





ん、ん、ん、、







どうやら

描いても

描いても

描いても

思いとペンが

裏腹のようだ。




ナビの通り
あそこで右折したはずだ。

何故、目的地に辿り着けない!


くそぉ、ここも一通か!!

ちっ!!!

迂回出来へんやんけ!!


…で、ここ何処やねん!!!!
















恐らく他者の"センス"は
PinterestやYouTubeに載っているが、
見たら負けな気がしてきた。


だが
その高い飛車、

この大いなる一手のセンスを

どうにも生み出せない。



















天才という名の"私"は

一体全体、
何をすることなのだろう。















器用とは程遠い、

天才とは無縁の、

なんでもない、

人類の9割型の人間である。

私など、
午後18時のセイユーかOKストアーに行けば
簡単に見つかるのだろうと思う。





















どうやら私は
桜木にはなれないみたいだ。






















天才とはなんだろう。

























考えれば考えるほど遠くなる気がする。

なろうとしてなるものではない気もする。

もういっそ、

逆に

0に近い天才要素は

もやは

振り切ってしまえば

0という天才なのだと
そう言ってやりたい気がしてきた。
















不細工な椅子だ!

これじゃ座れない!



下手な絵だ!

猫でもかけるぞ!
































でも、だったらなんなんだ。
















座れるか座れないか
そんなことは問題なのか。

模範の椅子

それが全ての正解なのだろうか。




下手な絵だからといって、
彩りがないわけでもないじゃないか。

誰かのいう、
誰が見ても素晴らしい絵

それは一体何が生み出した価値観なのだろうか。

















確かにギターのBmは永遠に出ない。

確かに人を魅了するような言葉は紡げない


確かに独創的な感覚は
どの引き出しにも入っていない

見本通りにはならない。






























でも、だったらなんなんだ。





















特技なんてひとつもない。

やることなすこと
皆々様の価値とは遠いものばかりで私の全てが構成されている。

それらばかりを
毎度生み出し続け、
いえばゴミのような完成品を
自分だけの空間で
それらを細々と今日も面白がって生きている。

ただ、これらの日々に
天才である必要は恐らくない。











こうなってくると

生産性に秘められた天才要素は

"大量"のそちら側が
大きな鍵を握っている気もしなくない。























相性の悪い野菜たちを
煮込んだスープに
















不味い!!!!!!




































直した結果、
取れかけたボタンのシャツを着て
(それは完成だ。)


子猫を抱きしめ

また今日も

音の出ないギターを弾くのだと思う。





それにしても、


壁に掛けた、その雑な絵も

iPhoneで撮った愛猫の写真も

うろ覚えで淹れたコーヒーも



全部、全部完璧だ。















最高じゃないか。













これを
芸術と呼んでしまえば

世の中は七色だ。






















そしてその空間がある限り、

世の天才たちは輝き続ける。

























中学生の目に映ったあの主人公は

きっと

バスケを楽しむ心の天才だった。

そしてその姿を心から応援する彼らもまた
舞台を操る天才だったと思うわけです。






















あぁ、美しいなぁ。





























今日もそんなこんな

十五夜お月様。

天からの才は

月餅にして

スコッチで乾杯致すことにする。

oki

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