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EVERYDAY大原美術館2023 vol.12「デジタルと人間」

私はドラクエ世代。
1986(昭和61)年、ファミリーコンピュータで遊べるゲーム「ドラゴンクエスト」が発売された。世の中にこんなおもしろいものがあるのかと、親の目を盗んでは、夜な夜なファミコンに齧り付く小学生だった。

広大な世界を舞台に繰り広げられる冒険の世界は、草原もあれば、砂地もあり、森もあった。ただし、全て四角い「マス」でできている世界。この「マス」の世界が、初めてデジタルの世界を体験した瞬間だったかもしれない。

デジタル前夜

今日は、1982年の作品。
まだ一般人がPC(パーソナルコンピューター)に触れる前の時代。
そんな時代に、デジタルを予感し、脅威を感じたアーティストがいた。

チャック・クローズ作「フィリップⅠ」

ナカムラさんのフィリップⅠ

フィリップはマス目の中に

ナカムラさんの絵には描かれていないが、たて100マス、横65マスくらいの方眼紙に白、黒の濃さがおそらく4~5種類で塗られている。1つのマスは単色だけど、少し距離をとってみてみれば、そこには、人物(フィリップ)が姿を現す。

デジタルの無限

100✖︎65マスを数色の色を塗ることで、フィリップは描かれてしまう。
同時に、フィリップでも、太郎でも、セバスチャンでも、
全人類がこのマスの中という範囲で、描けてしまうことになる。

そう考えてみると、フィリップは実在するのだろうか?
色の組み合わせでできてしまうなら、実在しない誰かも描けることとなる。
現代風に言えば、生成AIが作り出す人間の画像と同様のことが言える。
いくらでも、どんな風にでも作れてしまう。

デジタルの有限

フィリップはこのマスの中においては、データ化できてしまう。
マスに番号を振っていく。色にも番号を振ってみよう。
右端からマス1は1の色。マス2はまた1の色。マス3は3の色といった具合に
絵としてではなく、データとしてフィリップを残せることになる。
フィリップという人間は、たったこれだけのデータとして存在するようになる。
フィリップの存在はそんな数字で表されるような存在だったのだろうか??

デジタルではない部分

コロナ禍、オンラインが増えたことで、AIやデジタルでは出ない風合いや味わい、人間味なんてことが語られることが多くなった。
作者は、もうすでにそのことに対する脅威を感じていたのではないだろうか。

キャンパスは和紙を使っている。正確には漉いた紙。漉いた紙は、木の繊維を規則正しくなく、重なり合いできている。不均質であり、同一性のない紙を使っている。見るからに凸凹とした表面で、数色ある黒色もマスの中ですら均一とは言い難い。

フィリップは生きている

デジタル化されたかのように見えたフィリップではあったが、パーマのかかった髪の毛や、なんとも言えない表情は、不均質で同一性のないフィリップ彼でしかない。人間は唯一無二の存在でデータ化されることはない。
どんなにマスが細かくなりデータ量が増え、見間違えてしまうことがあっても、和紙のように細い繊維の部分では、人間は生きていることを実感させるものがある。

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