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SEKAI NO OWARIで「生命倫理」のレポートを書いた話。

2017年の夏。

そろそろ大学にもなれて、日々目の前の課題をこなしながら夏休みのカナダ行きを心待ちにしていた時期だった。

大学2年生の時のことである。

「生命倫理に関する作品を1つあげて、その倫理的立場について論じろ」

簡単に言えば、そんな課題がでた。

私はその頃、生命倫理に関する授業をとっていた。

好きな先生の授業ではあったのだが、真剣に聞き過ぎるあまりに爆睡し、気づいたらプリントにはミミズが大量発生していた。なので、心に残っている言葉と言えば、「安楽死の是非」「動物実験の問題性」(それも定かではない)くらいであった。


周りが「高瀬舟」(安楽死に関係している)や「野菊の花」(死生観など)を挙げているなか、私はここぞとばかりに自分の大好きなバンドの歌詞でやってみることにした。


SEKAI NO OWARI、通称「セカオワ」である。


「生命倫理でなんでセカオワ?ファンタジーやんけ」

と思う方もいるかもしれないが、そんな人に向けて実はこの記事を書いている。


話を戻す。私がそこで選んだのは、「不死鳥」という楽曲である。


人類の発明 君は最新型ロボット 
僕等と違うのはただひとつそう君は不死身なんだ

(不死鳥/SEKAI NO OWARI)

楽曲の出だしは、おそらく人間である「僕」と、最新型ロボットであり、「不死身」である「君」

楽曲は、この「二人」の対話形式のような形で進んでいく。夏が始まり、彼らは恋に落ちる。

ロボットであり、不死身である「彼女」(執筆者の解釈です)は、僕に言う。

もしも私のこの命が限りあるものになることがいつかはできたのなら
もう一度あなたを制限時間内に見つけるわ

(不死鳥/SEKAI NO OWARI)

それに対し、僕は

不死鳥よ僕に永遠を与えてください
僕と君なら何にも怖くないから
天国なんて君がいないのならば
僕と君は永遠になるから

(不死鳥/SEKAI NO OWARI)

ここまでの歌詞で、当時の私は2点、生命倫理に関する論点を挙げた。

①人間とロボットの境目って何?

②人間である「僕」の「永遠の命」は叶えられつつある

(※大学2年の時のレポートなので、論点が甘いのは十分承知です!)


2017年の時には、すでに「AI」という言葉もなじみであった。ペッパー君、人間の女性に外見をよく似せた受付ロボットも登場していた。しかし、このような「人間とロボットの恋」はSFの世界だけであった。


ロボットが、その場その場に感情を持ち、時には「カッとなってやってしまった・・・。」などという非合理的なシステムはおそらく登場しない。

だが、感情以外の面は?

実際、AIはすでに、過去の人間の再現を可能にし始めている。美空ひばりはつい先日、AI技術によって蘇り、さらに新曲まで歌ってしまった。

「人間」と「ロボット」「AI」について、ここまで「ロボット」が「人間」に近づいているという観点であったが、「人間がロボットに近づいている」という視点もある。

石上、石黒(2016)によれば、

「技術の歴史とは、人間の機能を機械に置き換えてきた歴史」(p24)

であるという。

義手や義足、ペースメーカー、人工臓器など、人間の身体は徐々に機械でも代用できるようになり、それに人間は生かされている。これらの機械が、メンテナンスなども行いながら、しかし永遠に動くことができたら、それは「肉体の寿命」からの開放といえる。


「僕」が願ったように、「僕」は技術的にはロボットに近づけるかもしれないし、それは「永遠の命」をさすかもしれない。「僕」と「君」にはもう境目はないかもしれない。


だが、「僕」は「君」のように永遠になれてハッピー♪ で楽曲は終わらない。


曲の2番の後半

「ロボット」である「彼女」は言う。

もしもこの聖なる星が降る夜が最初から存在しなかったのなら
あの真っ白な世界を朝とは呼ばないわ
終わりの無いものなんて最初から始まりなんて無いの

(不死鳥/SEKAI NO OWARI)

それに対し、「僕」は、

不死鳥よ僕に永遠を与えてください
僕と君なら本当に怖くないから
地獄だろうと君がいないのならば
僕は君と永遠になるから

(不死鳥/SEKAI NO OWARI)


二人の「死生観」は前半に引き続き、「限りある命を」対「永遠の命を」で対立している。

「ロボット」は、「永遠の命」であること、人間は「限りある命」であることを前提に語られ、両者は「ないものねだり」の状態として描かれる。


しかし、曲のクライマックス(?)にむかって、彼女はこう叫ぶのだ。

死がくれる世にも美しい魔法
今を大切にすることができる魔法
神様 私にも死の魔法をかけて
永遠なんていらないから終わりがくれる今を愛したいの

(不死鳥/SEKAI NO OWARI)

「死」に対して、否定的な「僕」に対し、「終わり」があるからこそ、「今」という時間を「大切にできる」という肯定的なとらえ方をする「彼女」。


人間の「不老不死」の願望は、秦の始皇帝の時代からすでにあったという。死への恐怖心から、人間は技術の改良を重ね、自身の健康を案じ、ここまで寿命を延ばしてきた。しかし、自殺率は増加し、延命治療に対し、自然死を望む声、安楽死という「自分の死を早める行為」も多く存在する。

「彼女」のようなロボットは、曲のなかで「永遠の生命」の象徴として描かれるが、ただ生きるのが長くなったとしても、「幸福ではない」と示唆している。


「僕」は曲の最後で言う。

不死鳥のように美しい君にいつか終わりが訪れますようにと
形あるものはいつかは壊れるから
僕は君の手を強く繋ぐんだ

(不死鳥/SEKAI NO OWARI)

「僕」は、「君」にも命の終わりが来ることを願い、生きているこの時間を大切にしたい、という結論に至った。

そして、彼らの夏は終わるのである。

「僕」の死生観は、「死」の否定から、「死があるからこその生」という考え方に転じている。

彼は「命の期限をただ長くする」という人間の欲望の表象でもあるし、いずれ死ぬ(終わりがある)からこそ「生きている時間を大切にしたい」という人間の願望の表象でもある。そしてそれは、この曲のテーマとも言えるし、SEKAI NO OWARIが一貫して伝え続けるメッセージでもあると思う。


****

ここからは、以上を踏まえたSEKAI NO OWARIにおける「死生観」やそれを「大衆化」させたことについて述べていく。

2019年の全国ツアー「The colors」は、ある文脈で語られることが多いように感じた。


「ファンタジーからの脱却」

「セカオワといえばファンタジーな世界観」

というのは、たびたびメディアでも語られてきたことであるし、私も彼らはそれを実践してきたと思う。

私は2014年の「炎と森のカーニバル スターランド編」というツアーからほぼ毎年参戦しているのだが、前年の「RPG」がバカ売れしたのをきっかけにライブにもその”ファンタジーな世界観”は色濃く出ている。

「SEKAI NO OWARI」のライブでは、たびたび「巨大セット」があり、それをバックに彼らはステージに立つというのが恒例であった。

(2013年、2014年、2015年、2017年は巨大樹、一部省略)

2014年「炎と森のカーニバルスターランド編」の【巨大樹】(執筆者撮影、ライブ撮影可)

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2016年「The dinner」【洋館】(執筆者撮影)

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2017年「タルカス」【巨大樹】(執筆者撮影)

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2018年「INSOMNIA TRAIN」【巨大機関車】(執筆者撮影)

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↓ほぼ全体像(大きすぎて収まりきらない)(執筆者撮影)

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「巨大」というだけで、そこには非現実性があり、そのセットが光ったりするのだからそれはそれは「ファンタジー」と言われてもその通り。

実際、「巨大」な樹なり機関車なりが会場に入ってから現れると、そこは現実とは切り離された異空間のように感じた。


だが、ライブの中身が全てファンタジーかというと、そうでもない。

例えば、2016年の「The Dinner」では、ライブの中盤で観客から一人指名し、洋館に連れ去るというパフォーマンスが行われた。洋館の前で演奏する彼らは、「人間捕食」する「人間のような生き物」という設定だったのだ。

実際、ライブ会場ではその後女性の叫び声が響き渡り、本当の肉が調理された。(人間は無事に帰ってきたはず)

ライブのクライマックスで「MAGIC」という、HAWAIIAN6が作曲した曲に、セカオワが歌詞を乗せたカバー曲が披露された。

この曲では、「太陽みたいにキラキラした」「僕」と、「たまに悲しそうに笑う」「最悪な性格」をした「君」がでてくる。二人は結ばれるのだが、「君」は「僕」との間に命を宿した後、死んでしまう。「僕」は悲しみに打ちひしがれるが、曲の終わりで

僕がさ、こんなに頑張って生きてきたのに
本当に大切なモノさえ失ってしまうんだね
でも僕はさ、知っているよ、それでも人生は美しいと
生まれてきて良かったと僕は本当にそう思うんだよ

(MAGIC/SEKAI NO OWARI)

一度大切な人の「死」を悲しみ、「不死鳥」の「僕」のように「死」を恨んでいた「僕」だが、最後は「生」の肯定へと転じている。

他のライブにおいても、「死」と「生」の表裏一体性のようなものを、彼らは「ファンタジー」な音楽と演出に乗せて、伝えてきた。伝えるものは、紛れもなく非日常でも異空間でもなく、「リアル」であった。悲しみの象徴とされる「死」を暗く歌っても、幅広い人には届きにくい。

彼らが「大人から子どもまで」愛されると言われているのは、この誰にとっても共通のテーマを「ファンタジー」や「ポップ」という手段を使って、大衆化させているからではないかと思う。

今回の「The colors」は、それまでの、ライブのアイコンとなるような「巨大セット」はない。

2019年「The colors」(執筆者撮影)

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しかし、「情報にあふれた時代をどう”生きる”か」といった、「生」にスポットライトをあて、ファンタジーの要素を押さえて直接的に伝えていたように感じる*。

そして、ライブが終わり、メンバーが去るとき、深瀬が提示した

" WHAT A BEAUTIFUL WORLD"
2019年「The colors」(執筆者撮影)

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という言葉は、生きるだけで困難な時代ではあるけれど、

「それでも世界は美しいのだ」という彼らなりのメッセージであった。

SEKAI NO OWARIは、「死」という人間にとって「避けられない真理」を「ファンタジー」という形で投げかけながら、一方でずっと「生きること」について伝え続けてきたバンドなのだ。


だからこそ、私は大学の「生命倫理」のレポートの題材に、彼らの歌詞を選んだのだ。


長くなってしまったが、このnoteを読んで少しでも多くの方が

「よし、LINE MUSICでセカオワ聴いてみよっかな」

という気分になっていただけたら、執筆者としてこれ以上幸せなことはない。

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(2020/1/2追記)
過去、他媒体で書いていたセカオワの詳しいライブレポートはこちら。ただのオタク目線の記事ですが笑
The colors(2019)


IMSOMNIA TRAIN(2018)


Tarkus(2017)


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参考文献

石上高志、石黒浩 (2016). 『人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか』. 講談社.

* 「情報があふれた時代」をテーマにしたのは、2017年の「タルカス」もそうであった。タルカスでは、架空の王国での悲劇を題材に、「絵本」ような、おとぎ話の舞台演出が用いられた。

※実際に提出したレポートでは、「クローン技術」の話や、自殺数の数値、人間の死に場所が変わってきた、など様々な観点を盛り込んだが、今回はあくまで音楽の話なので省略した。

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