師・戸田城聖(2)「現代人物論 池田大作」小林正巳著(昭和44年9月25日)第8回

青春の日々
ところで、池田は若い頃から、かなり克明に日記をつけている。昭和二十四年五月、池田二十一歳の時にはじまった日記は、三十五年、会長に就任するまで続いた。そのうち、三十年までのものが「若き日の日記」のタイトルで、さきに「週刊言論」(潮出版社)に一部が連載され、その後三冊の本にまとめられている。池田はこの本の冒頭に、「日記など、人前に見せる性質のものでないことは十分承知している。しかし、私共は、同じ兄弟の仲だ。私の過去のありのままの姿を飾らず知ってもらうこともよいと思った」
と記している。その趣旨から非売品だが、この日記に一貫するものは、死を意識するまでの病身にむち打って、ひたすら恩師、戸田をたすけ、事業の再建と折伏戦を戦う池田の苦闘の歴史である。そこには、つねにみずからを戒め、つぎつぎに新たな決意、目標を設定して自己を律していく一青年の真摯な姿がある。
この日記は,いうなれば、池田の“人間革命”のナマの記録であり、同時に池田大作の人間形成の過程を理解するうえで、最も貴重な資料でもあるように思われる。なぜなら、この日記が単に、自戒や、決意の羅列に終わってしまったのではないからである。「 若き日の日記」に書かれている池田の確信、抱負が、今日の池田や、彼の指導する創価学会に実現されているところに、この日記の、記録としての価値がある 。
以下、「若きの日記」から、戸田と池田の師弟関係の一端を探ってみることにする。

無限の幸福
池田は若いころからなかなかの文章家である。日記は簡潔かつ、詩的表現に綴られている。前後五年余りにわたるこの日記は、戸田に対する尊敬とともに、戸田を師にもった誇り、日蓮正宗に対する確信、自身へのきびしい反省と自覚、また世相に対する寸評などから青年池田の人間性が鮮明に浮き彫りされている 。
とりわけ、戸田に関する部分は、今日における先生と生徒、教授と学生、社会の中の指導者と大衆の人間関係にはみられない純枠な“師弟関係” が描き出されている。
戸田が事業に失敗したときのことである 。
「先生の人格は、嵐や、波浪で、押し流されるようなものではない。最終の事業によって、その偉大な、人格の勝利は、決定されるものだ。歴史は偉大なる人物を、置き忘れることもある。されど、私は、真の人格者たる先生の光輝ある力が、消え失せることは決してないと信ずる」
「先生も本当に、お苦しい様子。悔し涙が一杯。そして師に続き苦しみゆける、感涙が一杯」
「先生が、行かれる処に、私は行く。唯それだけだ。師がたとえ地獄にゆこうと、勇んで、地獄にゆくことこそ,真の師弟だ」
戸田の弟子として、師弟の感動がつぎのように綴られている。
「先生は正成の如く,吾れは正行の如くなり(略)この日の感動、厳粛、感涙、使命、因縁,生き甲斐は生涯、忘れることはない」
「先生の悠然たる姿。あまりにも大きい境涯。未来、生涯いかなる苦難が、打続くとも、この師に学んだ栄誉を私は最高、最大の幸福とする」
「師弟の道の峻厳さを泌々とかみしめる夜である。先生を離れて自己はなし、師弟不二(一体の意)なれば。
他の友人等の自由の姿が羨ましくなる時がある 。
だが、十年後はその力の相違が、いちぢるしく明確にされゆくことだろうか」
また、戸田の健康がすぐれないのを心配して、
「先生がもし倒れられれば、学会の存在は無に等しくなる。会社もわが家も倒れるに同じ、否、日本、東洋の暗黒は眼前たり」
師の偉大さを称える言葉では、
「幾多の伯人もいた。幾多の先駆者もいた。しかし、庶民と共に、今これだけ青年を引きつけ、新時代を建設している人は、先生をおいて断じてない」
「権力なく、財力なし。背景なし、地位もない。所詮は人間の裸になった力。全生命よりほとばしる信心の力。十年後、否、百年後を目指しての英知。われ無量の思いあり」
「先生の、限りなき境涯、構想等を、泌々、深く偉大なりと知る一日である」
そして池田自身、健康を害したときのことである。
「一日一日が激務。身体がひどい。
しかし、大願に立ちたる先生の苦悩を知れば苦しいなどといってはいかん。師より楽をしようとは、悪い弟子だ」
ついに死を予感するほど悪化しながらも、日記は師をおもう心に貫ぬかれている。
生命の奥底も極めず、人類社会に大利益も与えず、師の恩も返さず、それで死んでいくのはあまりにも残念だ」
「先生のお体を心配する。先生の側近として軽卒な言語を反省、猛省する。
師弟の道を学会永遠に留めおくこと」

心のきずな
はじめの想い出にあるように、戸田は非常にきびしい師であった。日記の随所に叱責を受けたもようが記されている。それは「荒れ狂うごとく」「 暴風のごとく」あるときは「 泰山も裂けるがごとく」であったという。むろん戸田の真意は、弟子を育てることに目的があった。だから、池田は、叱責のなかに師の慈愛を受けとめ、これにこたえようと、そ のつど決意を新たにするのだ。
「先生、朝より厳責。吾が心、峻岳の氷雪を踏む思いあり。寒風、裸者を刺す如し。申し訳なし。精神年齢、肉休年齢、共に革命せねば。色心連持で、仏法の実践、実証をなすことだ」
また、あるときは、
「先生悲憤なさる。激越なる叱責あり。暴風の如く―全く、全責任は私にあり。今後猛省を期す。師に対する道は,最も自覚しているのに。―先生の恩恵に、あまえ過ぎし、自己の軽率を悔む。我が身の不覚を、鏡に映された如くである」
その翌日にも、重ねて反省がしたためられている。
「咋日のお詫びにゆく。先生いわく、骨身に泌みたであろう、あとは確信をもって行動せよと。何たる厳愛の言菜であろうか。浅薄なる自己を、ますます反省する。まことに、己れの浅はかさを猛省する」
以上は三冊におよぶ日記のごく一部をかいつまんだものだが、これからみても、池田が戸田をいかに敬い、誠実に尽くしたかがわかる 。戸田もまた、このような池田を心から信頼していたという。池田にとって戸田は慈父とも、厳父ともいえる存在だったが、そうした
“師弟関係”が成立したのも、戸田と池田の間に、第三者の介入を許さない心のきずなが結ばれていたからにほかならない。そして、戸田と池田の師弟関係の伝統は今日の創価学会における池田と学会員の人間関係のなかに、そのまま引きつがれているのである。