組織と理想の指導者像(2)万人のための真の指導者「現代人物論 池田大作」小林正巳著(昭和44年9月25日)第40回

指導者の条件
 「
権力者は青年を利用するが、指導者は青年を育てる」とは池田の言葉である。 一般的に指導者という言葉と権力者という言葉は混同されがちだ。早い話が,一刻の首相は,最高の権力をもつことによって,その国の指導者にもなる。しかし,指導者として適格かどうかは別である。
 池田が指導者と権力者の概念を区別して使うのはそのためといえよう。
 それなら,池田が考える指導者とは、どういう姿なのか。
「先見の明があり、理念をもっていること。理念のない指導者は失格だ。それは単なるボスに過ぎない。その意味で、吉田松陰や福沢諭吉は指導者といえる。
 第二に民衆に直結しているかどうかだ。ケネディは貴族的ではあったけれども、民衆に直結し、支持を受けた。
 第三に、指導者自身が、身を以て示さなければならない。それでなければ、指導される側は納得しない。
 第四に、後輩を育てて自分より偉く、幸せにしていこうとする心を持っていること。権力者は民衆を利用し犠牲にするだけだ。
 つけ加えるなら、次代の人たちの幸せ、未来像を求めていつも気を配り、悩みをもっている姿勢でなければならない」
 これが、池田の期待される指導者像の条件である。多くの国民の運命を荷う指導者なら、一日一日が目に見えないものとの闘争であり、本来孤独なものかも知れない。そうした意味から池田は「リンカーン米大統領の、あの哀愁を帯びた顔が好きだ」という。肖像画にやどる、人知れぬ憂いの表情、そこにある孤独な影に魅かれるからだと思う。

歴史上の指導者
 
池田は指導者の心構えを運転手にたとえてみせる。「人の命をあずかって新しい道を進む運転手は、寝ているわけにはいかな 。同じように、政治家が寝ていたら、あぶなくて仕様がない。すべからく指導者と名のつくものは、新しい道を行く運転手と思わなくてはならない」
 そうしたいくつかの観点から指導者の在り方を考える。歴史上の指導者についても、その鏡に照らして評価するのである。
 「指導者は、青年を育て、次の時代へ送り出していかなければならない」これをひとつの指導者像とすれば、歴史上多数の青年を死なせた指導者は、真の指導者とはいえない 。その反対に,身の危険を冒して師を奪い返そうとした弟子たちに、そうさせなかった吉田松陰は、真の指導者となるわけだ 。
 もっとも、このように指導者の要件をすべて百パーセント満足させるような指導者というものは、ざらにいるわけではない。一部の条件にはあてはまっても、他の条件に欠ける場合がほとんどだろう。だから、総合点でいくより仕方ない。
 そこで池田に、最近の世界的指導者に対する論評を求めてみた。

三人の指導者論
 以下は池田の論評の要旨ー。
 まずケネディ。未知数なところもあったが、新鮮な世界観に立脚し、時代を洞察する姿勢があった。平和共存の信念から、勇気をもって戦争を防ごうとした努力。裏返せば、米国民に対する本当の意味の責任感をもっていた点で評価できる。ブレーンを生かしきっていた。強いて難点をあげれば、欧米中心主義の、悪い意味でのキリスト教的発想によるアジア対策の失敗。
つぎにネール。革命児である。東西両陣営にまきこまれず、第三勢力をつくり、平和を保とうとする理念があった。おしむらくは、貴族出で人材を育てることができなかった。権力者のもつ欠陥でもある。そして、チャーチル。敢然と祖国を救済した勇気ある宰相。ただし 、戦時の人で、戦後の人ではなかった。
 池田は以上三人には高い点をつける 。
 日本では、信長。展望が大きく、英知に富み、果断であった。好きな人物の一人 。話はそれるが、歴史上、池田のよく話題にとりあげる人物の一人はナボレオンである。もっとも指導者としての評価は高くない。
 「ナポレオンの理念は、征服の理念だけで、今日にも将来にも通用するものではない。でも 、不死鳥のように二度にわたって立ち上ったところは実に見事だ。文化は興隆させたといえるかもしれぬ。やはり権力者だから破壊を行ない、一人も人材を育てていない。それにしても、大変な天才ですね。天才はある意味でこわい」 ナポレオンのたどった運命について、「自分の比重の方が、国全体の比重より重いという優越感からの失敗だった」と指摘している。それでも好きなのは、ナポレオンのダイナミックな生涯が、彼のロマンチシズムをゆさぶるせいだろう。
 そういえば、池田はパリのルーブルにある絵画について私に話したとき、
「全くこの時代の絵画はすばらしい。 素人の私たちに偉大なる感銘を与えずにはおかない。人間の躍動がある」と絶賛した。また音楽について、「ベートーベンの第五、運命。天井がぐるぐる回るぐらいの強い感動をおぼえる。耳の不自由な ペートーペンが、苦悩のなかに 彼の全生命をたたき込んだところが万人の胸を打つのだ」と話したこともある。
 池田の好きなユゴーの小説,ナポレオン・絵画 ・音楽、それらに共通するのは、生命力にあふれる雄大な躍動美であるようだ。

指導者と教育者
 池田自身は、生涯指導者として徹底する姿勢である。「 二十一世紀に向けて弟子のなかから、多くの人材を送り出す」彼はそう決意している。
 「会長の立場は、革命児でなく、指導者でないといけない。そして弟子を革命児として育てていくことです。そうでなく会長自身が革命児になってしまっては、必ず行き詰まってしまう。」
 そういう一方「自分の一生は激流の中を闘いぬく革命児である」ともいい、また「一面では、一人一人を指導者として育てていく」ことに力を注ぐ。
 幹部に対して「後輩を伸ばし、自分より偉くさせ雄飛させていかなければならない」というのも指導者の心得をさとしたものである。むろん、池田自身 、それを実行している 。池田はこれまでに弟子たちを地方議会に二千人以上、国会議員として数十人も送り出している。今後さらに増えるだろうが、池田自身は公的地位は何もない。一生、人材育成者としての姿勢を貫くと私は確信する。
 それにも関連するが創価学会で、参謀室長のポストが長く欠員のままだった時期があった。というのも、池田が会長に就任する以前、戸田の下でこのポストにあったことから,参謀室長 には、いつしか会長の後継者のようなイメージができあがっていた。だから、学会員としてもこのポストは欠員のままにしておきたい気持があったのだろ 。しかし 、池田はあえて参謀室長を任命している。それについて私がきいたとき、「自分と同じ境涯に立たせて、つぎの時代に進んでもらうためだったのだと思う」といった。指導者としての心構えを自ら示すところに 意味があったのだと思う。

指導者論語録
 池田は、これまでおりに触れて指導者の在り方、心構えについて多くの発言をしている。
 「指導者は名聞名利にとらわれたり、栄誉栄達主義であっては断じてならない」( 大白蓮華巻頭言)
 「昨日までの功績に酔うものは退歩と知れ。指導者は常に未来に生きよ」(日々の指針)
 「指導者は、指導する相手よりも、絶えず勉強し、一歩前進している人の異名でなければならない」(講演)
 「すぐれた指導者は、感謝され、喜ばれるから、人々を前進させていくことが出来る。反対に、権威主義と形式主義に流され、不親切であれば、後輩を傷つけ、反感を抱かせ、全く信心を進めさせることができない」(大白蓮華 巻頭言)
 「いかなる時代でも心ある有能な指導者はつぎの世代に着眼し、育成するという方程式を用いている」(講演)
 どれもこれも、名言に違いない。だが、そう説く池田の実践に裏付けがないとすれば,多くの人たちを動かすことはできないだろう。
 いわゆる教育の専門家といわれる人たちが、期待される人間像を作りあげてみたところで、それは単なる作文でしかない。池田は「虚勢、虚栄のメキはいずれはがれる 。真実でぶつかることが最大の指導です」というが、そこに池田の指導の真髄がある。