対談 池田大作は語る:後へ続くひとのために(昭和44年)(3)小林正巳(毎日新聞記者)

<体制に挑戦する現代青年>
小林 ところで、大人はなにかにつけて、今の若いものは気力がないとか、礼儀を知らないとか言いがちです。もっとも、この言葉は古い世代から次の世代へ順送り的なところもありますが。現代の青年について、会長はどのように思われますか。
池田 一部の姿をみて、全体を批判することはできない。無気力だとか、礼儀知らずだとかいうのは、一部分しか見ない偏見ではないかと思う。もちろん、刹那的な楽しみに酔ったり、長いものには巻かれろ式の,無気力な青年も一部にいるかも知れないが、総じていえば、今日ほど、青年がバイタリティにあふれている時代はなかったといえます。
 過去の青年は、せいぜい体制内のバイタリティだったといえる。いまの青年は、体制そのものに挑戦している。礼儀知らずというのも、こういう体制変革の時代には、旧体制の象徴のような礼儀が無視される現象も起こりうるわけで、このことは当然なことです。新しい時代には、それに見合った、新しい礼儀や作法が確立されなければなりませんからね。

<断絶を埋めるもの>
小林 そこで、私は世代間の断絶をどう埋めるかが、社会的に大きな問題だと考えますが。
池田 青年は革新です。次の時代の主役です。時代がどんどん進んでいるように、旧世代と新世代の間に断絶が生ずるのは、やむを得ない。だが,断絶のままで行けば,これは不幸だ。
どちらかが歩み寄って、対話が行なわれなければならない。どちらが歩み寄る べきかは明瞭です。
 青年を大人の方へ近づけようとするのは、時代の動きを逆行させることになる。また、人生の経験を積んで、柔軟さと寛容さをもっているのが大人のはずです。後輩を理解しようとせず、ただ、自分の我をはって威張っているのは、嘲笑されるのが関の山だ(笑い)。率先して 、新しい考え方を学び、青年を賢明にリードしていくのが、本当の大人のあり方だと私はいいたい。
 ただ 、現今の青年の問題に関して、私が憂えるのは、バイタリティだとか、理想だとかいうのは結構だが、大人の奸智にだまされないだけの冷静な判断力と英知を持ってほしいということです。猪突猛進型は、それだけワザをかけられやすい。ずるい大人のなかには、体制変革の理想に同調するとみせかけて、実は体制内に吸収してしまおうと計っている者がいるかも知れない 。
 次代は青年のものです。青年は、破壊のあとに、いかなる建設をなすべきかという遠大な理念とピジョンをもち、そこに新しい時代の潮流を巻き起こしてほしいと思います。
 破壊の革命家は、破壊が終わると同時に、もはや無用の存在と化してしまう。それでは悲惨で、かわいそうな人生だと思う。建設の理念をもった革命家であってはじめて、真の革命家といえるし、社会の指導者としての、人生の美を飾っていけるのではないでしょうか。

<抵抗と諦観の風潮>
小林 現代の社会には、さまざまの矛盾があることは誰もが感じています。だが、このぼう大な社会機構のなかで、一人一人の人間は全く無力でしかない。腹をたてたところでどうにもならない。そうした無力感から、青年の生き方として、ゲバルトに走るか、マイホーム主義で小さな幸福に甘んじるか、刹那的享楽に走るか,こうした風潮をどう思いますか。
池田 非常に残念な風潮です。たしかにおっしゃるとおり、抵抗するか、あきらめてしまうか、二つに一つしかないように思えますが、こうなってしまった青年たちを責めるわけに はいかない。それでは、結局、何ら解決への一歩になっていないことは明白ですから。
また、こうなってしまったのは、為政者の責任ともいえるが、もっと根本的には、社会体制や慣習、固定化した考え方の責任だ。たとえば、首相など一個人を攻撃したところで、どうしょうもないというのが、私の実感です 。
だが、いずれにしても、誰かが、この風潮を正し、この日本をもっとすばらしい国にしていかなければならない。それを誰か他の人に押しつけるのではなく、私自身、多くの青年たちとともに、それに打ち込んでいきたいと思っている。創価学会の使命もそれに尽きます。

<年功序列の中の青年>
小林 年功序列でがっちり固まっているので、若い世代の気持なり、考えなりがなかなか汲みとられないし、反映されず、そこに断絶の大きな原因があると思うのですが。
池田 実際問題、現代の社会はあまりにも老人支配が多すぎる。政界などはそのさいたる例だ。青年の活躍できる分野などまるでない。たまに若手議員がでても、党の首脳や閣僚に抜擢されることは、絶対にありえない。
 官界は、もっとひどい年功序列だ。能力による人事などまったくないといってよい。これでは働きがいを見つけだせるわけがない。ほんとうに 青年たちがかわいそうだ。創価学会では、うんと青年を 重んじています。公明党も同じです。若手ほど、存分に活動しています。実力に応じて、いくらでも仕事をしてもらう、これがいまの社会にはないんですね。
革新と称する政党だって、党の首脳は、自民党以上に高齢者で占められている。これでは革新の看板が泣く(笑い)。そんないまの大人たちに、青年たちを叱る資格がどこにあるかと私はいいたいのです。
 青年の心は敏感であり、純枠です。大人たちが、真心こめて青年たちを大事にし、立派に育てていこうと接していくならば、彼らがその期待に応じてくれないわけはない、と私は思っている。

<必要な価値観の転換>
小林 「二十一世紀について」と題する随想のなかで「恒久平和を確立するうえで、現代の価値観を転換しなければならないと述べておられるが、同感ですね。現代は戦争に限らず、交通事故や公害をみても、一人の人間の価値が余りに軽視されているのではないですか。
池田 その通りです。戦争は、この最も極端な例としてあげたにすぎない。現代の社会は、すべての面で、人間の価値を軽視しているといえる。これまでの文明の病弊だ。
 政府の交通対策、公害問題、医療対策、住宅政策など、どれをとり上げても、人間軽視、生命軽視の典型だ。
交通事故で、人が死ぬことなど日常茶飯事となってしまいましたし、高校生の首切り事件にしても、今から五、六十年前、明治、大正時代、あるいは昭和の初めの頃であったならば、大変なことでしょう。それが、事件のおきた三日は新聞でも大騒ぎしますが、すぐ火が消えたように忘れられてしまう。一般の人々も「またかといった表情で、たいした驚きも示さなくなってしまっている。ほんとうに恐ろしいことです。
 さらに 、世界的に は今日、アメリカや南アフリカで問題になっている人種問題にしても、根決していくことができると確信します。
根底は、人間生命の軽視からきているのですね。この根底の価値観があらためられない限り、この問題の真の解決はありえないと思う。
この世の中で、いかなるものよりも 尊いものは、人間の生命のはずだ。どれほどの財産を租んだとしても、人間 一人の生命にはおよばない。したがっ て、この生命を最も尊厳なものとする、最高の価値観が広く定着したならば、戦争など完全になくなるでしょうし、その他の困難な問題も、つぎつぎと解決していくことができると信じています。