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課程博士の生態図鑑 No.24 (2024年3月)

※ サムネイルの背景に使用しているのは、ソ・サンイクによる「Not Trained」という作品の一部を切り取ったもの。


研究関係の話

博士論文

博士論文のプロットを少しずつまとめ始めている。まずは今まで読んだ文献を Miro で整理するところから。やり方としては、Notion のデータベース機能でまとめている本や論文のデータを csv でエクスポートし、タイトル列を Miro に貼り付ける(Miro の機能で勝手に付箋化してくれる)。

まだろくに整理できていないので、整理前のスクショでそれっぽさを演出

博論に引用する文献とそうでない文献の精査から着手するだけでもかなりめんどくさい。文献の整理の前に、自らが書きたいことをプロットにまとめ、文献を後から紐づけていく方法もあるだろうが、僕の場合は一旦今までの学びを網羅的に整理したいので、こうした方法を採用している。

もちろん博論で主張したいことは既になんとなく頭にあるが、文献を整理する間に新たに書きたいことがどんどん思い浮かんでくることを期待している。どうせ書いてる間に足りない文献を補充することになるので、ぐちゃぐちゃになる前に過去学んだことを網羅する必要がある。当たり前だけどね。

僕の研究は、人間を「分割不可能で固定的な個人」として捉えるのではなく、「分割可能で流動的な分人」として捉えるような見方を土台としている。なので、分人に関係する思想をひたすら集め、なぜこのような見方で研究をするのかという Why を固め、心理学や文化人類学などで扱われている分人的見方の研究を並べて How をまとめる。そして、僕が行った研究がどこに位置づけられるのかを主張する感じになると思う。

この文章だけ見るとどんな研究をしているのか、皆目見当がつかないと思うが、大学院では一応デザイン科学を扱う領域に在籍しているので、基本的には人間の創造性について扱っている。

僕のやってることは以下の通り。(研究成果が少ないのがお恥ずかしい)


アイデア採点システム

博論とは別にやってる研究の進捗もちょっとだけメモ。

昨年の9月あたりから、AI との関わり方が創造行為にどのような変化を与えるのかについて研究している。具体的には、Chat GPT を中心としたツールを使う場合と使わない場合、また、使った場合に、どのように使用するとアイデアの質が変化するのかを探求する研究だ。

しかし、そもそもアイデアを評価する方法を確立しないとより良い研究にはならないのではないか、という問題に直面しており、まずは AI がどうとか、そういうテーマは一旦置いておいて、アイデア評価方法に関する研究をしている。従来、人間によって生み出された成果物は、人間によって評価されるのが一般的であるが、これには限界がある。どれだけ評価軸を頑張って考えても、結局は評価者の主観に依存するものなので、信頼に足るアイデア評価をするのは難しい。

主観的な創造性の評価(成果物、あるいは創造行為の主体者自身について、自己評価をすること)の場合は、そもそも主観を扱うものなので、再現性云々は見当違いの問題であるが、客観的な創造性の評価(成果物、あるいは創造行為の主体者自身について、第三者が評価すること)はそうはいかない。

また、仮に人間による評価が客観的で再現性のあるものになったとしても、人的コストの問題もある。アイデアが10万個あった場合、どうしても評価しきれないし、人間の性能的に集中力も続かないので評価のブレが出てくる。

そこで、自然言語処理によるテキストの意味空間生成を利用したアイデア評価方法を作ることにした。近年、上述したようなアイデア評価に関するコスト的課題感から、評価方法の自動化に関する研究が英語圏を中心に注目され始めている。しかし、日本語のテキスト評価に関する研究はまだほとんどない。文法構造の違いから、英語の評価方法をそのまま日本語に適用することは難しい。ここを研究することには大変意義があると思った。

具体的な説明はここでは割愛するが、アイデア名に含まれる各形態素をベクトルに変換し、それをアイデア単位のベクトルに合成する。そして、アイデアプール全体の重心からの距離を算出し、それを点数化するという方法を検討している。こんなに単純ではないが、重心からの意味的距離が遠いほど、アイデアの珍しさや独自性に相関のある数値が得られるという見積もりだ。

しかし、形態素ベクトルの合成方法を加法にするのか乗法にするのか、表記揺れ(「りんご」と「林檎」のように異なる表記で同じ意味を持つ単語など)による意味の揺らぎをどう捉えるか、単純にデータプールの重心を求めてしまっていいのかなど、多くの問題に直面している。

一旦、自分が実験にて収集したデータだけでは足りないと判断し、外部の事前学習モデルを参照してベクトル化するやり方などを試しながら、できるだけ形態素の意味を正確に捉える方法を模索している。Chat GPT にはかなりお世話になっております。

コンピュータによる自動採点がある程度形になってきたら、人間による評価との相関を調べなければならないのだが、人間による評価もいろんなやり方があるので、何を採用するのかを慎重に選ばなければならない。問題は山積みだ。

本来、この AI と人間の共創に関する研究は博論にも入れる予定で計画していたのだが、ご覧の通り手前段階の基礎的研究が思ったより複雑で、やることがたくさんあることがわかってきたため、博論には入れず、独立した研究として扱うことにした。テキストをベクトル化して評価するやり方は、自分が今までやったことがあるテキストマイニングでも触れたことがあるのだが、ここまで本格的に取り組んだことはなかった。新たなスキルを習得する苦しみを味わってる最中である。

給付型奨学金に落選

昨年の暮れに応募していた2種類の給付型奨学金にどちらも落選した。

特に笹川科学研究助成に関しては、募集要項に書いてある内容にかなり共感していたので、採択されたかった。就活と同じで「なぜ落ちたか」というフィードバックは特にないため、自分が提出した書類のどこに欠点があったのかを振り返ることが難しい。残念な気持ちではあるが、悔しいという気持ちになることができない。

まぁ、ちょっと風呂敷を広げすぎた感は否めない。もう少し局所的な研究内容に注力して書くべきだったか。「自分にとって研究はこういうものである」という、どうでもいい話を深掘りしすぎたのも問題かもしれない。

申請書類の内容は以下のPDFにまとまっている。これから奨学金に応募することを考えてる人は、ぜひ反面教師にしてほしい。



面白いと思った文献や事例

Jony Ive spent the past 4 years perfecting his typeface. Here’s why he’ll never be done

https://www.fastcompany.com/90888571/jony-ive-spent-the-last-4-years-perfecting-his-typeface-heres-why-hell-never-be-done

記事のURL

ジョナサンアイブが設立した LoveFrom というデザインファームや、そのウェブサイトに使用されているフォントに込められた想い、歴史について記述されている記事。

2019年に Apple を退社したジョナサン・アイブは、 Love From を設立したことで話題になったが、その活動は未だ多くの謎に包まれている。ウェブサイトには Love From Serif で記載された数行のステートメントがあるのみ。

彼は今何をしているのか、この記事ではその全容を掴むことはできないが、彼が最初に着手した、Love From Serif をデザインするプロジェクトについて、その背景がまとめられていた。このタイプフェイスには、ジョナサン・アイブが考えるこれからのモノづくりのあり方が凝縮されている。

Love From のロゴにも使用されているこのタイプフェイスは、John Baskerville というイギリスの印刷業者がデザインした書体に影響を受けているという。Baskerville は、タイプフェイス自体をデザインするだけではなく、それがシャープに印刷されることを保証するために、各文字をプレスする金属の父型にもこだわっていた。自分が思い描く形を実現するために、その製造過程や、それを支える様々なハードウェアへのこだわり。当たり前っちゃ当たり前なのだが、誰でも簡単にものづくりに関われる現代、それこそ、生成 AI の隆盛によってモノづくりの大半がブラックボックスになってしまった現代社会では、忘れられがちなことだ。

ジョナサン・アイブたちは、Baskerville のタイプフェイスに込められた歴史的経緯などを研究し、ものづくりを支えるクラフトマンシップを守ろうとしている。ものを生み出す過程で、誰のどんな取り組みが私たちを支えているのか、そんなことを思い出させてくれる。

ちなみに、ウェブサイトの最後は、love & fury という言葉で締めくくられている。fury を直訳すると、「激怒」とか「狂暴」 という結構激しめな意味だが、Love From はものづくりに対して、愛情と狂気的なまでのこだわりを持って接していくということの表れなのだろう。

この記事では、Love From のロゴに使われている「,(カンマ)」の意味についても詳しく書かれており、それがまた面白い。気になる人はぜひ読んでみてほしい。

縄文土器論

岡本太郎が1952年に美術雑誌の「みずゑ」に投稿した論考。「日本文化の伝統」という本の中にも再録されているらしいので、読みたい人はこの本を購入するのが一番手っ取り早いかも。

僕が読んだのは、英訳版のもの。みずゑを参照するのは少々面倒だったし、日本文化の伝統は買おうとしていたものの、縄文土器論だけとりあえず読みたかったので、下のサイトから無料でダウンロードできる英訳版をあたってみることにした。単語の癖が強いので、読むのはちょっとしんどい部分もある。しかし、18ページしかないので、そこまで苦ではない。

この論考の内容をざっくり要約すると、縄文と弥生の生活様式を比較しながら、縄文時代の異質な美意識を紐解いていくものだ。タイトルの通り、土器に注目している。

弥生土器などに現れる造形パターンは、現在の日本にも通底している。しかし、なぜ縄文土器はこんなにも異質で複雑なパターンが刻み込まれているのか?と、岡本太郎は疑問に思ったらしい。

確かに言われてみれば、茶室とか庭園とか、ザ・日本文化みたいなものと比べると、縄文土器は結構異質だ。日本文化を勉強中の外国人に縄文土器を見せたら驚くに違いない。

岡本太郎曰く、縄文と弥生の間で、日本人の美意識にかなりの断絶が感じられるという。彼の主張を僕なりに整理してみると、この2つの時代の違いは、今を考えて生活いるのか、未来を考えて生活いるのか、ということだと思う。

縄文時代は、基本的に狩猟・採集社会であり、農業はまだ輸入されていなかったので、長期的なプランを立てることができず、「今どうするか」を考えなければならない。さらに、常に獲物の位置や自分の位置、周りの環境に気を張っており、自分の生き死にも全くコントロールができない状態が普通である。そんな環境の中では、パターンという概念すらない。それが縄文土器の異質な造形に反映されているという。

対して弥生時代は、農業がスタートし、明日以降を計画できるようになった。明日も明後日も、5年後も、今日と同じ生活をする。そんな中で、自分の生き死にがパターン化され、周りの環境もコントロールの対象になる。すると、三次元的な空間的認知能力が失われ、それが土器や他の道具の造形にも反映されているのだ。

以上が、岡本太郎の主張を僕なりにざっくりまとめた内容だ。もちろん、縄文時代にも局所的に定住はあったろうし、例外もたくさんあるだろう。しかし、この論考において重要なのはこの主張の真偽ではない。世界への新たな眼差しを創造し、既存の固定観念を揺さぶっていることが重要なのだ。客観的に正しいと思われる物事を疑い、あえて揺さぶりをかける。それはある種のフィクション的な物語かもしれない。でも、人間のバイアスを取っ払い、世界への理解を深めるためには、こうした取り組みがアカデミックな文脈で増えていくともっと面白いかもしれない。

私たちが人間以外の生物とつながり直すためには?神話と芸術がひらく通路、アニミズムの関わり

芸術人類学者・神話学者の石倉敏明とアーティストの Antoine Bertin の対談をまとめている記事。今まで人類が生み出してきた神話の役割について考察している。

そもそも神話は、人間の集合的な無意識が具現化したものであり、人間が世界をどう捉えていたのかを浮き彫りにする装置である。曰く、世界中に存在する神話の多くは、人間以外のアクターを柔軟に取り込むという特徴を持っているらしい。

神話とは、動物と人間とがまだ互いに切り離されてはおらず、それぞれが宇宙に占める領域がまだはっきり区別されていなかった、非常に古い時代に起こった物語である。

https://inquire.jp/2023/12/05/reconnecting-with-animism/

神話は空想の物語ではある(と言い切るのは怖いが)のだが、その土地に人間とともに生きる非人間のアクターの視点が、人間の言葉に翻訳された内容が記述されている。なので、神話には虚構の奥に人間の世界についての知覚や認識のフレームが隠されているのだ。レヴィ=ストロースなんかは神話分析でこのあたりに着目したのだろう。

神話においては、人間は非人間を道具として扱っているのではなく、それぞれのパースペクティブがある前提で、互いの自己を尊重し、他者性のネットワークを築いているという。この記事では、共同体ではなく共異体という言葉を用いて説明していた。アクターネットワーク理論なんかも、よくよく考えると神話的なアニミズム的世界観が色濃く反映されている気がする。

この記事で最も面白かったのは、アクターが他のアクターと関わりながら、自身を変容させていくというところ。仮面や壺絵、絵文字など、人間の生み出す造形物の形から、人間および様々なアクターの変容可能性が示されているという。そして、共異体のネットワークを神話という虚構の中で構築し、自己と他者を越境していく過程で、キメラ的な存在が造形物として浮かび上がることがある。

このようなキメラ的表現は、アクターの変容可能性を示している。まさに分人的な認識のフレームである。西田幾多郎の言うところの「小なる体系から大なる体系への発展」とも近いかもしれない。キメラは、発展の過程を切り取ったものとして読み取れる。

昔から人間は、自己を分割可能な存在として捉えており、それをキメラなどのオブジェクトで表現していたのかもしれない。

では、現代における神話的、キメラ的な表現とはなんだろうか。

僕は「SCP」がそれに当たるのではないかと考えている。SCP とは、「Secure(確保)」「Contain(収容)」「Protect(保護)」の略であり、SCP財団なる組織が奇妙な超常現象や自然法則に抗う物体、生物(財団ではこれを SCPオブジェクトと呼んでいる)を収容するという架空の物語である。財団のサイトには、不特定多数の人々から大量の架空の現象や生物に関する情報が投稿されている、ある種の集団的な想像力の集積場所となっている。

都市伝説やホラー的な説話が投稿される Creepypasta(クリーピーパスタ)と構造としては似てるかもしれない。

しかし、SCP財団が Creepypasta と異なるのは、個々の物語を横串で貫く規範があることだと思う。例えばギリシャ神話(全然詳しくないので間違ってるかも)では、基本的には世界の創造や破壊について、オリンポスの神々を中心に説明しており、それらが人間にどう影響を与えているのかを解釈している。そんな一貫した規範が存在する中で、ライオンの頭、山羊の体、蛇の尾をもつキメラ(これに関しては狭義の意味の、固有名詞としてのキメラ)だったり、人間の体に牛の頭を持つミノタウロスなどの異形の怪物たちが登場する。そしてこれらの物語は、特定の人間によって作られたのではなく、不特定多数の人々によって口承されてきた、ある種の集合的創造物である。

SCP財団にも、神話と同じく、基本的には奇妙な超常現象や自然法則に抗う物体を収容するという一貫した規範が存在し、その中で様々な物語が創出されている。そして SCP財団のサイトに投稿されるものたちには、人間が何に対して恐怖し、どのように恐怖を克服すると嬉しいのか、という集合意識が反映されている気がする。

例えば SCP-910-JP(ちなみに全ての SCPオブジェクトは、こんな感じのユニーク番号で記録、管理されている)は、道路標識がモチーフになっている。普段は一時停止の表示になっているのだが、人間から身を守るために自身の標識内容を変形させ、それに伴った現象を起こすことができる。「車両侵入禁止」に変形したときは、付近の車両が全て押し出され、「踏切あり」に変形したときは、標識の傍らにいきなり踏切が出現し、列車が通過する。落石注意の場合は…、横風注意の場合は…、とにかくいろんな標識に変形する。

http://scp-jp.wikidot.com/scp-910-jp

確かに標識は怖い。そもそも標識は、速いスピードで走るドライバーに向けて端的に情報を伝えなければならないので、色や文字が必然的に強くなってくる。夜一人で運転してる時にいきなり赤地に白文字で「止まれ」が出てきたら結構びっくりする。動物注意とかも結構怖い。

SCP-910-JP は、人間が持っている標識に対するなんとなくの恐怖をキメラ的に様々な現象と紐付けて表現している。逆に、標識という非人間的アクターに生物としての自我を与え、人間との関わりを描いてるとも言え、とてもキメラ的だ。

他にも様々な SCPオブジェクトが投稿されており、僕もまだ全然把握できていないが、面白いオブジェクトを収集するのが最近のちょっとした趣味になりつつある。

現代における神話的、キメラ的な表現を SCP財団から読み取ってみると面白いかもしれない。神話に強く、SCP にも明るい研究者の方がいたら、ぜひその辺りを深掘りしてみてほしいな。僕も将来的に SCP を研究テーマにすることを密かに計画している。

アクターが他のアクターと関わっていきながら変容していく、分人的な認識の枠組みが、SCP からなんとなくだが感じられる。


ではまた来月。

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