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課程博士の生態図鑑 No.8 (2022年11月)

研究の進捗

今月は主に実験の実施と、それを分析をするためのスキル習得に追われていた。正直かなり忙しくてしんどい。「これが博士課程か… 」と心の中で思い始めている。来月には国際学会に提出するための論文を書き上げる予定なので、相当追い込む必要がある。

Rの勉強

僕は今まで実験結果を分析するために、「EZR(Easy R)」という自治医科大学附属さいたま医療センターの教授が開発したフリー統計ソフトを使っていたのだが、今月から R Studio に移行することにした。ちなみにEZR はマウスでポチポチするだけで簡単にデータが色々いじれる R Commander に組み込まれた統計解析ソフトだ。それに対して R Studio は実際にコードを書き込まないといけないが、できることはもっと多い。

正直なところ、今回分析に用いる手法的には R Commander や KH Coder で十分なのだが、細かい部分を実際に自分でいじくり回す感覚を今のうちに身につけておきたいなと思い、R Studio を導入することにした。多分今後も使うことになるだろうな。

R をいじり始めてから大体2週間が経過したが、自分がやりたい分析については大体できるようになってきた。ここまで来るのに相当ストレスを感じたが、ちょっとした達成感が芽生えている。お陰様で予定していた分析はほとんど完了した。(といっても、データに対する精緻な解釈はこれからだが)

自分が書いたコードに対するエラーが全く解消できず、丸一日進捗がゼロで絶望した日もあったが、次の日にはあっさりエラーが無くなったりする。とりあえずやってみるもんですね。

※ やった感を出すためあえてゴチャゴチャに可視化してます。ほんとはもっとシンプル。


とりあえずテキストマイニングの手法を数種類組み合わせて分析しているが、テキストデータにメタな情報を付加するようなコーディングの方がデータを深く読み解けるなと思った。

元々 M-GTA とか SCAT と言われるような質的分析手法を採用していたのだけれど、時間的コストがものすごいかかるのと、“論文の形式として” ちょっと客観性に欠ける。なので仕方なくコンピュータに分析をアウトソーシングしているのだが、より本質的に人間を捉えられるのはどっちなのか、悩まされる。

プロテウス効果

今分析に着手している研究とは別に、他の研究テーマについても同時にリサーチをちょっとだけしていた。前々からやってみたいなと思っていた研究テーマなのだが、ようやく重い腰を上げ始めた。

具体的には、人間の見た目を変えることで、その人の中に潜在的に眠っている「創造的な分人」を呼び起こし、創造的自信、あるいはアウトプットにどのような影響を与えるのかを検証してみたいのだ。これについては以前 note にも書いたことがある。

そのテーマのメインになりそうなキーワードの一つが「プロテウス効果」というものだ。仮想空間上で用いられるアバターの見た目が人間の行動に影響を与えるというもの。正確には、見た目から連想されるキャラクターに影響されると言った方がいいかもしれない。

例を挙げないとよくわからないと思うので、いくつか論文を紹介してみる。

スーパーマンになろう

まず最初に取り上げたいのは、「Virtual Superheroes: Using Superpowers in Virtual Reality to Encourage Prosocial Behavior」というタイトルのものだ。DeepLで翻訳にかけてみると「バーチャル・スーパーヒーロー:バーチャル・リアリティにおけるスーパーパワーの活用による社会的行動の促進」となる。かなりオシャレな論文のタイトルだと思いませんか。スーパーパワーの活用て。僕みたいな雑魚研究者がこんなタイトルにしたら一瞬でリジェクトされてしまいそうだ。

内容としては、タイトルの通り被験者がスーパーヒーローのアバターを一定時間体験すると、現実世界に戻った時により人助け(実験者が落としたペンを拾う)をするようになったという。「本当かよ」って思ってしまうような内容だし、ペンを拾う以外の行動も見てみたいものだが、この論文の面白いところはプロテウス効果の「持続性」に着目したところだと思う。

この後にも紹介するが、プロテウス効果を検証する論文はバーチャル空間内での出来事を扱うことが多い(僕がまだリサーチ不足だからそう感じるだけかも)のだが、この論文では現実空間との接続を試みている。このテーマを扱う上では結構本質的なのではないか。あとこんなキャッチーな研究人生で一度はやってみたい。

詩人か図書館員のうち創造的なのはどちらか

以下の論文は、与えられるステレオタイプの種類が、人間の創造性に与える影響を検証している。

この論文は上述した論文と違ってアバターを用いていないので、プロテウス効果なのかと言われると厳密には違うかもしれない。

実験内容としては、被験者に対して、詩人のロールを与えるグループと図書館員のロールを与えるグループの2つに分け、どちらが創造的なタスクをこなせるようになるのか検証していた。

創造的なタスクを行う前に、「あなたが詩人(あるいは図書館員)であることを想像しながらタスクを実行してください」みたいな指示が与えられるだけなのだが、被験者は勝手にそれぞれのロールを、固定観念に縛られたステレオタイプとして解釈する。詩人は創造的で、図書館員は厳格で非創造的であると解釈されたそうで、前者のロールを与えられた群の創造性が有意に高かったらしい。

図書館員のことを非創造的であると解釈するのと同じように(実際の図書館員が厳格で創造性に欠けるかは置いといて)、創造的自信が低い人は自分の創造性に対する可能性を勝手に低く見積りすぎていると思う。それを外部から操作し、創造的な分人の構成比率を増大させられるのであれば、このような研究には大変意義がある。さらに、今後バーチャルな世界が普及してくれば、如何にして創造的な分人を生きられる空間(環境)に身を置くか、あるいはどの顔で生きるのか、を知ることは重要だろう。

創造的な自信がない僕らは皆イマジナリー図書館員なのかもしれない。

発明家はユーザーに寄り添わない

次の論文は、仮想空間上でアイデア発想する際、使用するアバターの種類によって、生み出されるアイデアも異なることを検証した論文だ。一個前に紹介した論文とちょっと似ているが、この論文はちゃんと仮想空間上で創造行為を行わせている。

https://www.researchgate.net/publication/303464618_Using_avatars_to_tailor_ideation_process_to_innovation_strategy

Research Gate で無料で公開されている

とあるフランスの企業のイノベーション部門に勤める社員を2つのグループに分け、公共交通機関のスマートウィンドウの可能性を探索するワークを行わせたらしい。一方のグループは発明家を模したアバターを、もう一方のグループは公共交通機関の利用者を模したアバターを使用し、バーチャルの交通環境に没入する体験をし、アイデア出しを行っていた。

発明家のアバターを使用すると、より技術的な解決策を志向する傾向のアイデアが生まれ、公共交通機関の利用者を模したアバターを使用すると、よりユーザー中心のアイデアが生まれる結果となっていた。

さっきの論文は、創造性が高いか低いかみたいな単純な検証しかしていなかったが、この論文ではアウトプットの方向性まで検証してるのが面白い。将来的にデザイナー達は、ターゲットユーザーの着ぐるみ(アバター)を着てアイデア出しするのかもしれない。いや、デザイナーは普段からそれと似たようなことをしてるのか。しかし見た目を変えることの影響はやはり大きいと思うので、どうなっていくのか楽しみなところではある。西田哲学でいうところの直観だろうか。内側から世界を観察したい。

「今度の想定ターゲットは小学生か。よし、小学生のアバターを使って1週間生活してみよう」みたいな。


面白いと思った文献や事例など

暮らしのアナキズム

大学の先輩(OB)に結構前に勧められた本。ずっと積読してたが遂に読んでみた。松村圭一郎の本は一度だけ読んだことがあり、とても面白かった記憶があるが、この本も期待を裏切らなかった。

簡単に言うと、日々の生活から離れてしまった政治を我々の手に取り戻し、目の前の問題に対して一人一人が対処できるスキルや考え方を身につけようっていう本。

これだけ言うと陳腐な内容に聞こえるかもしれないが、かつて平等であったはずの市場(いちば)から何故アナキズム的思想が奪われたのか、国家を捨てた人々はどのように生きているのか、国家が形成される要因となった過剰生産はどのように生まれたのかなど、興味深い事柄が事例を元に深掘りされている。

また、アナキズムというと国の存在を否定するような印象を受けるが、実際には国の中であってもその姿勢は成立するという主張が展開されていて納得感があった。詳しい内容は是非本書を手に取って読んでみてほしいが、特に印象に残った文を引用する。

いつからか、政治が政治家だけのやる仕事だと、限定された領域に押しこめられてきた。それで投票率が上がらないのは、あたりまえだ。投票に行っても、世の中は変わらない。政治が政治家だけのものなら、その実感は間違っていない。
市民が国の政治に口をだそうとすると、とたんに「そんなこというなら、政治家になれ!」といわれる。ミュージシャンが政治的な発言をしたら、「音楽だけやっていろ!」といわれる。いわば、暮らしから政治が奪われてしまっている。政治は、ぼくらの直面している問題への対処のことだ。それなら政治はむしろ暮らしそのものだったはずだ。

くらしのアナキズム

まさに本書の主張したいことの核心だろう。

くらしのアナキズムとは、生活者が直面している問題への対処である。そしてそれを実現するためには、生活者同士が支え合うことが求められ、「宛先のある経済」が重要である、と本書は主張していた。

近年クラウドファンディングなどが注目されているが、このように誰かを支援するような「応援消費」と、誰かからものを購入するただの「消費」は、実は明確に区別できないという。違いがあるとすれば、それは消費の先に「宛先」があるか否かだろう。このような透明性のある消費を生活に浸透させることで、我々は支え合っていることを自覚し、政治を日々の生活に取り戻すことに繋がる。

非常にコンヴィヴィアルで web3 的な思想であり、技術的にも「宛先のある消費」がマジョリティになる日は近いと思う。

いろんな人がいろんな場所で、だれのためにモノやサービスを売り、だれのためにお金を払って買うのかを意識する。あえてあの人のお店で買う。よく来るお客さんの顔を思い浮かべて、商品を棚に並べる。その顔の見える関係を介してやりとりされたお金が、またほかのだれかのためにつかわれていく。

くらしのアナキズム


落合陽一のシンギュラリティ論

落合陽一が語っている動画を久々に見て、内容がちょっと面白かったので共有してみる。この動画は簡単にいうと、コンピュータが人間の能力を超えると世の中はどう変わるのか、という話である。

この動画では、実際に落合陽一がリアルタイムでオリジナルの曲を生成する様子をデモンストレーションしながら、現在のコンピュータの能力を生々しく伝えていたのだが、その中でも、16:20あたりの話が考えさせられる内容だった。

それは、「論文を5秒で生成できる機械が出てきたら、それでも論文書きます?」という問いだった。個人的にはとても刺さる問いである。しかし、すべての研究領域が駆逐されるわけではないだろう。

よく心理学や社会学などの領域に対して、再現性の危機みたいな話題が出ることがあるが、落合陽一の問いを聞いて、人間が取り組むべきは、むしろ再現性の難易度が高い内容を扱う領域を研究することなのではないだろうかと思った。唯一の真実を突き詰める自然科学的な領域よりも、思考のフレームを生み出していくような人文科学的な領域である。(このように研究分野を分けるのは好きじゃないけど、あえて分けて考えてみる)

例えば人類学者のように未知の文化の中で暮らし、言葉や文化を学び、その研究者独自の視点(ある種のバイアス)から世界を切り取る。そしてそれを世に共有し、別の人間がまた考えを深める。このように曖昧でカオスな知を受け入れるようなことは人間にしかできないと思う。

と言いつつ、新しい技術は積極的に利用させていただくが。

また、17:50 あたりで、「AIが描いた絵と、人間が描いた絵の区別がつかない」みたいな話題が一瞬出たが、これをどう捉えよう。個人的には、AIが描いた絵がマジョリティになり、人間の創造活動が無くなるのには懐疑的だ。くらしのアナキズムの内容でもあったけど、宛先のある消費とAIの相性は悪いと思う。プロセスが透明になっていく世の流れの中で、人間は5秒で生成された虚無に投資するだろうか。もし仮にAIが描いた絵がマジョリティになったとしても、物事の価値は相対的であるので、人間が描いた絵の価値は必然的に高くなる気がする。AI に得意不得意を設け、人間くさいコンセプトを漂わせたら人気出るかもね。

まぁ、どっちに転ぶかはわからないが、どっちみち人間のクリエイターはいなくならない。というかこの二項対立自体が間違ってる気がしなくもないが。何はともあれ、皆くらしのアナキストになるのだ。

全然関係ないけど、最近落合陽一の顔色良くなったよね。


その他の出来事

耳の聞こえない世界との交流

前々から少しずつ計画していた千葉聾学校とのプロジェクトが本格的にスタートした。具体的にどんなアウトプットになるのかはまだわからないが、まずは関係性づくりを兼ねて、あちらの学生さんにヒアリングをすることに。実際僕は引率的な立ち位置で、プロジェクトのメインプレイヤーは学部3年生なのだが。

一口に聾唖者と言っても、障がいのレベルは人それぞれで、全く聞き取れない子から、口の動きさえ見えれば大体の聞き取りはできるという子まで。そんな事情もあり、交流は様々な方法で行われた。筆談だったり、ジェスチャーを多用したり、聞き取りが得意な子が積極的に手話で翻訳してくれたり。

ヒアリングをしていく中で判明したのは、我々が予想していたよりも遥かに「日頃の困り事がない」ということだった。確かに、彼らにとって耳が聞こえないのは当たり前で、日頃から理解ある人達に囲まれて生活している。自分たちはある種の偏見を持っていたことに気付かされたと同時に、ヘンリー・フォードの

「もし顧客に、彼らの望むものを聞いていたら、彼らは「もっと速い馬が欲しい」と答えていただろう。」

という言葉を思い出した。(イノベーションの文脈ではかなり有名な言葉だが、実は本人が言った証拠はどこにもないらしい...まぁそれは置いといて)

人は自らの理想状態をそんなに把握していない。であれば、こちらからより良い状態を提示するしかない。そんな、デザインをやる上で当たり前のことを再認識した出来事だった。

僕も多くのことに気付かされたが、特に3年生にとって(あるいは、あちらの学生さんにとっても)多くの学びがあったことだろう。彼らは非常に優秀なので、今後に期待しています。

なぜか他大学のゼミに参加

同じ研究室のとある学部3年生の子が、どうやら千葉大学への進学に興味があるらしく、指導教官の伝手で千葉大学のある研究室に見学に行くことになっていた。そんな状況の中、ある日指導教官に「岡本もついでに行くか?」と声をかけていただいた。「一体何のついでなんだ」と思ったが、せっかくなのでその3年生について行くことに。

見学に行く研究室は、自分が普段やっていることとは全く別の領域のことをやっていた。当日はその研究室の大学院生を対象としたゼミを見学させていただいたのだが、途中から流れでディスカッションにも少し混ぜてもらい、めちゃくちゃ楽しかった。

学生一人一人が自分のこだわりを持ち、意見を交わしている。当たり前っちゃ当たり前なのかもしれないが、普段自分の大学ではなかなか体験できないレベルの議論だったので、とても興奮した。ゼミが行われた部屋は小さく、そこに10人ちょっとがぎゅうぎゅうになって議論していたのもポイントが高い。人と人が対面でじっくり議論する感覚は久しかった。

小学生とプログラミング

2021年あたりからプログラム化させていたワークショップを、大滝町にある小学校に対して実施した。WeDo 2.0 という、プログラミングとレゴブロックを組み合わせたようなサービスを用いて、小学生にプログラミングの仕組みや楽しさを教えるワークだ。iPad にインストールした Wedo 2.0 のアプリを用いてプログラミングを実行し、その内容を Bluetooth でレゴに伝達する。具体的には、地面に設置されたブロックを、ブルドーザーのように組み立てられたレゴで回収して行くというゲームだ。

僕が考えたわけじゃないが、非常に面白いゲームだと思う。今後もこのように小中学生と関わる機会が多そうなので、色々と展開していきたい。

大多喜町立西小学校でのワークショップの様子


川内倫子の個展

2年ほど前から好きになっていた川内倫子という写真家の個展に行ってきた。

僕は別に写真家の業界に対して明るいわけではないが、この人にはなぜか一瞬で惹きつけられた。なんというか、時間の流れを静止画として表現することに成功してる人なのかなと思う。こんなにも、被写体ではなく「感じ」 を表現できるのはすごい。得体の知れない何かが確実に写真の中に存在してる。

定期的に彼女の写真は見てしまう。本当に行ってよかったと思う。あと、オススメの写真家さんがいたら誰か教えてくれませんか。

https://rinkokawauchi-me.exhibit.jp/
https://rinkokawauchi-me.exhibit.jp/
https://rinkokawauchi-me.exhibit.jp/



今月の報告はこんな感じで。


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