課程博士の生態図鑑 No.18 & 19 (2023年9~10月)
※ サムネイルの背景に使用しているのは、カシャーク・ラヨシュによる「Munka / Dokumentum」という作品の一部を切り取ったもの。
予測と観測のズレは大きくしておいたほうがいい
9月と10月は忙しい日々が続いた一方で、中々集中しきれない日々が続いた。集中できなかった理由はよくわからない。
やったことといえば、大学関連のタスクだと、主に論文の執筆や実験の実施、給付型奨学金に応募するための書類作成を2件ほど行うなど、結構お堅くて自由度の低いことばかりやっていた。外部の仕事関連だと、詳細は言えないが自社サービスの Web サイトのリデザイン、出店する展示会のブースやチラシのデザイン、他社から依頼された OEM のプロジェクトなど、かなりいろんなことをさせてもらっている。(自由度が高いかと言われるとそんなこともないが)
なんだろう。集中力が高い時期と比べると、なんとなくインプットが少なかった印象。アウトプットばかりしていると、あっという間に脳のリソースが枯渇してしまう感覚に襲われる。
先日、Takram の緒方さんが書かれた note を読んだ。その記事は自由エネルギー原理と創造性の関係性(タイトルは AI のことについてだが)について扱っていたのだが、その内容が中々興味深い。インプットが少なくなることで集中力が無くなってしまった原因が少し整理できた気がする。
曰く、自由エネルギー原理とは「能動的推論による自由エネルギーの最小化こそが、人間を含む生き物の心、脳、行動を説明する統一原理である」という主張らしい。つまり、脳は予測と観測の「ズレ」を最小化しようとするということだ。詳しくはこの記事を参照してほしいのだが、緒方さんはこの記事の最後に Chat GPT との対話記録をそのまま載せており、その内容が面白かった。以下が対話の中のとある一部分である。
何かを創造することは「ズレ」を生むことであると言っていいかもしれない。なのでそれは、予測モデルを最小化する自由エネルギー原理と矛盾することを意味するように思える。しかし、創造行為は「なんで世界はこうじゃないんだろう」というモヤモヤから発生するものであり、自身の内側の認知ではなく、自身の外側の環境を改変することで予測と観測のズレを長期的に最小化しようとする行為なのではないか。
例えば、草間彌生が生み出す網模様や水玉模様は、彼女が患っていた統合失調症による幻覚を外部に彫刻し、環境と自身の認知のズレを無くそうとした結果なのだろう。これは極端な例だが、「こんな椅子があればもっと楽なのにな」とか「このアプリのボタンの色をもう少し濃くすればちょっとは使いやすくなるのにな」とか、そんなことでもいい。人間は、道具を生み出したその時から(道具を生み出す存在が人間だという主張もあるが)、外部環境を改変することで、予測と観測のズレを最小化する手段を手に入れたのである。
だいぶ話が大きくなってしまったところで話を元に戻す。僕はインプットが少なくなってしまうと、集中力がなくなってしまうのではないかと考えていたわけだが、これまでの話を踏まえると、どうやら僕という人間は新しい情報(予測とのズレ)に対して、自分なりに解釈し、整理することでズレを最小化してしまうらしい。しかし、ここ最近はインプットが少なくなったことで、ズレを最小化する作業をあまりやっていなかったのかもしれない。
仮に、生きることを「ズレを最小化するプロセスである」と定義すると、ズレを最小化し終わった状態は、全く生きた心地がせず、何をするにもすぐ飽きてしまい、集中することができないのではないか。ここ最近は、アウトプットを通じてズレを無くすことばかりやってしまい、インプットによってズレを大きくする作業を怠ってしまっていた。僕は常にズレがある状態じゃないと、何かに熱中することができないのかもしれない。
盗作と引用の違いについて
視点の提示
ふと、「私的デザインの現在地」という本(と言っていいのかわからないけど)を読んだことがきっかけで、盗作と引用の違いについて考えていた。
この本は、デザインに何かしらの形で携わる41人の人物が、各々のデザインの定義について「デザインとは〇〇かもしれない」という構文でまとめているものだ。デザインを学ぶ学生さんは一度読んでみるといいかもしれない。
この本の中で、「デザインとはものまねかもしれない」という定義があった。
デザインに関わらず、何かを表現することを伴う活動には、常に引用と盗作の違いは何かという問題が取り沙汰される。サンプリング文化が当たり前とされるヒップホップシーンでは特にこの問題が話題になる印象がある。この2つの違いはなんなのだろうか。上記の引用文をヒントに考えてみると、その違いは独自の「視点」があるかどうかだと思う。この視点がなければ、ただ同じことをやっているだけになってしまうが、独自の視点を持っていれば、それは十分オリジナリティのあるものに昇華される。
例えば、東京五輪のロゴ酷似問題は、模倣したこと自体が問題なのではなく、独自の視点がないことが原因で、表現として面白くなかったのが問題だったのかもしれない。視点の提示がなかったが故に、引用ではなくただの盗作になってしまったのだ。
「デザインとはものまねかもしれない」という定義を見て、受け入れられない人もいるかもしれないが、僕は41個の定義の中で、この定義が最も共感した。一方で、一歩間違えると盗作になってしまうものでもあるので扱いが非常に難しい定義でもあるが。
僕はここ半年くらい、創造性を「選択と生成の無限の連なりである」と定義しており、過去の note でも書いているのだが、ここ最近ようやくその考えがまとまりつつある。まとまったというよりかは、より確信を持つことができていると言ったほうが適切かもしれない。
現場のものを拾い集める
「発酵文化人類学」という本の中で、作者の小倉ヒラクさんは、人類学者であるレヴィ=ストロースが提唱した「ブリコラージュ」の思想を引用しながら、以下のような主張を展開していた。
つまり、人間は無から何かを生み出すことはできないということだ。何かを生み出す際には、必ず現場にある外部環境の何かから影響を受け、引用し、編集を加えている(編集を加えなかった場合、それは盗作になる)。例えば、画家が絵を描くとき、その画家は無からビジュアルを生成しているわけではなく、自らが見た自然の風景に加え、誰かが構築した思考のフレームや、誰かの作品のスタイルをインプット(選択)し、触発されて手を動かしている。本書風に言い換えると、創造行為とは、世界の関係性を発見する行為なのだ。
少し話が飛躍するが、創作物の多様性を生むためには、現場にあるもの、土着的なものを拾い集め、それらを編集するという考え方のほうが良いのではないかと思っている。
というのも、最近トーマス・ヘザウィックという建築家のインタビュー記事を読んだのだが、その中で彼はモダニズム(あるいはモダニスト)への批判をしていた。
モダニズムの定義がなんなのかは非常に難しいが、デザインの分野においては、人間の理性によって自然をコントロールの対象としながら、無駄なものを削ぎ落とし、合理的、機能的に洗練させることを志向する思想体系という感じだろうか。平均的な人間というものを創り出し、その人間に対して機能的であることが求められたため、必然的に土着性を排したキャラクター性のないモノが生み出されることになる。
ヘザウィックはそんな潮流を生み出した思想体系への批判をしていたのだ。
確かにヘザウィックはモダニストたちと違い、土着的なキャラクターを活かしながら、人工物と自然物を調和させるようなモノを多く生み出している印象がある。完全に一致するかはわからないが、レヴィ=ストロースのブリコラージュ的なものを感じる。
一見、多様性という言葉を聞くと、今までにない全く新しいものを生み出さなければならない強迫観念に駆られそうになる。しかし、既存のものを繋ぐ引用という行為を捨てた非連続的なスタイルでは、むしろ多様性が消えてしまうのではないか、というのがヘザウィックが主張したいことなのではないかと思う。
ここまで、盗作と引用の違いについて、「視点」や「ブリコラージュ」などのキーワードをもとにそれっぽい考えを述べてみた。僕は普段大学で研究をする際、大量の文献から実験結果や思想体系を引用し、編集作業をすることで研究テーマを生み出していたり、デザイナーとして活動する際も引用に溺れそうになりながらアウトプットしている。この note ですらも、多くのものを引用しながら書いている。思い返すと、生活のほとんどが引用なのだ。なので、この違いについては今後も考え続けることになるだろう。
この記事の冒頭に書いた「インプットが少なくなってしまうと、集中力がなくなってしまう」という問題についても、結局は引用するものがないと何も生み出せないということなのかもしれない。
全体の総和以上のものを生み出すためには
最後に、引用から生まれる創造性について問題提起をして終わろうと思う。
それは、「既存のものをただ組み合わせるだけでは何かが足りないのではないか?」ということだ。ただ組み合わせるだけでは、全体の総和以上のものは生まれないはずだ。しかし、私たちは新たな知を生み出し続け、現在の多様な文明や文化が存在している。これはどういうことなのか。「私的デザインの現在地」では、独自の視点のようなものが必要であると語られていた。
では、独自の視点を生み出すにはどうすればいいのだろうか?
僕の勝手な見立てとしては、独自の視点を生み出すためには、アブダクションが必要であり、それを引き起こす身体が重要なのではないかという仮説がある。が、このことについては別の機会に書こうと思う。
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