見出し画像

80歳

たとえばの話だ。

私は今80歳で、夫に先立たれ、たった1人で暮らしている。1人で暮らす一軒家は、しーんと静まりかえって、途方もなく広い。娘は市内に家庭を持ち、息子は飛行機に乗らなければ会えないほど、遠く離れて暮らしている。

幸い、体はまだ元気だが、時々ひどく寂しい。この頃は、子ども達がまだ幼かった日を思い出す。ふわふわの頬、私を取り合う声、ぐちゃぐちゃに取り込まれた洗濯物、本読みの丸つけ。

川の字で眠る布団のずれ、寝相の悪い息子の回し蹴り。溜まっていく友人からの連絡。同僚の相談。顧客からの不在着信。多忙な日々。睡眠不足。夫との口喧嘩。

窓からこぼれる穏やかな光に誘われて、ゆっくりと靴を履き、近所の銀杏並木を歩く。近くの幼稚園から漏れる声に耳を澄ませながら、ざくざくと葉を踏みしめる。

あの頃はよく、トイレに籠ったり、2階の寝室に隠れたり、夜遅くまで開いている本屋へドライブしたりした。1人になりたくてたまらない時があった。誰にも邪魔されずに、自分のために、自分のことがしたかった。

四六時中、こちらの都合はお構いなしに胸に飛び込んでくる息子も、一緒に本を読みたいと待っている娘も、疎ましく感じたことがある。余裕がなかったのだ。

いまここに、子ども達がいたら。
私はぎゅっと手をつなぎ、最後まで話を聞くだろう。うんうん、それで?と相槌を打ち、銀杏の葉だって好きなだけ持ち帰ろう。

今更、どんなに愛おしく思っても、もう決して戻っては来ない日々。ひとすじの涙が、頬をつたう。ああ、たった1週間でいい。目を開けたら、あの生活に戻してもらえないだろうか。神さま。

…と願った後、
奇跡的にタイムスリップしたのが今日だと思って、どうにか毎日を謳歌しよう。うず高く積まれた洗濯物にすら、にっこりと微笑んで。

#一駅ぶんのおどろき   #ママ #子育て #育児 #エッセイ #妄想

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?