円満の話

個人的に10万年くらい前から謎に思っていることがある。
それは「ケンカしない関係よりも、ケンカしてる関係の方が円満な家庭を築ける」論についてだ。
んなことはないだろう、と。

そもそも「円満」とはなんなのか。
weblio辞書には「物事のようすや人柄などが、調和がとれていて穏やかなこと。また、そのさま。」と書かれている。
正直それが答えとは思うが、ここで終わってはこの記事を書いている意味がまるでないので、さらに「ケンカ」について調べよう。
言い合った殴り合ったりしてあそうこといさかい。」だそうだ。
「いさかい」について調べよう…なんて言っていたらキリがないので「口論や揉め事」とでもしておく。
では、「ケンカ」が起きる理由は何かを自分なりに紐解く。一言で表すと「片方もしくは双方の理解の欠如」に終始すると考える。
この時点で調和が取れているとは到底言えるわけがないので、現在ケンカをする仲は円満ではないということになる。

「いや、ケンカをする事で理解が深まって、結果的に円満に繋がるだろう。」なんて声も聞こえてきそうではあるが、ケンカをする事が理解の深度化に繋がるなんていうのは理想論でしかない。
ケンカの程度にも拠るところではあるが、ケンカが原因で関係の悪化に繋がることだって大いにある。時間が溝を埋めるケースだって他聞にあるとは思うが、それを経たところで理解の深度化にはなっていない。
さらに「この世の夫婦はケンカを経て、その多くが一生を添い遂げている。」という反論もありそうではあるが、それを円満な関係だったかと考えると自分としては疑問符が残る。
先から言っている「理解」というのは「あいつはこういう奴だから、またケンカになる前に折れておこう…」のようなマイナス思考とは一切違う。
それは「理解」などではなく「諦め」であり、対話することを怠けているとしか個人的には思えて仕方がない。

「円満」であるためには、理解の欠如からくる極めて感情的な攻撃=ケンカに発展しないよう、普段から対話と修正を繰り返すことしかないのだ。
ケンカをする時点で理解が足りておらず、感情的な攻撃でしか自分を理解させるor相手をねじ伏せるしかできないような浅い状態で深い関係を築くということは全くもって腑に落ちない。
ましてや普段から対話と修正をせずにケンカしていずれかの譲歩を図るなんてことは、自分からすればエサや縄張りを取り合う動物と何ら変わりがない。

とは言え、普段から対話と修正を繰り返そうとしていてもケンカに発展することは往々にして起こりうる。
そうならないためにも、円満のためにケンカという手段を用いるのではなく、普段からお互いの接し方や我慢、癖、嗜好、笑いのツボ、怒りのツボなどといった人となりを表現・共有・理解しようと努めることこそが真の「円満」と思うのだ。

世に跋扈する論「ケンカで得られる円満」とは、どのようなものなのか、その実態にとても興味がある。


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