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映画えんとつ町のプペルはやっぱり〇〇

おはようございます。アルキメデス岡本です。

さて、映画えんとつ町のプペルについて、さんざんあれこれと考察してきましたが、この映画に欠けている最大の要素が何なのかある人物が語っていました。

■映画えんとつ町のプペルはやっぱり〇〇

岡田斗司夫さんがこの映画は、「思想性が低い感動ポルノ」だと言われていて納得しました。(中々、エグい例えです)

どういうことかと言うと、作者の思想でもある「諦めずに夢を叶える」という映画のテーマは、他の誰かの思想とも対決しないまま終わってしまうと。

私もこの映画には攻防がないところが物足りない要素だと解説しましたが、アニメオタクの大御所と見解が一致して良かったです。

この物語は、作者の思想を疑わず反省もないまま信じてる事だけを主張して終わってしまうので、「思想性が低く薄っぺらい自主映画」という結論に達しました。また、言い方を変えると「作品性の低い信者用マーケティング商品」とも言えるでしょう。

つまりどういうことかと言うと、西野はマーケターであって、クリエイターではない。もう少し厳密に言うと、ドブ板マーケターとしては三流、映画クリエイターとしても三流ってとこか。

元々、「思想性の低い感動ポルノ」をHYDEや蜷川実花、芦田愛菜など一流アーティストを使ってブランディングして商品価値を高めたに過ぎず、アニメ映画作品としての価値は低い。

まあ、アニメファンやオタク達には人気が出ないでしょう。(西野信者は大絶賛ですが)

ただ、西野信者がこの映画を好み熱狂するのは、この映画に漂っているプロレタリア文学の臭いであり、虐げられた労働者の直面する厳しい現実から希望の光を見出すからであろう。

それは、えんとつ町という思想弾圧された町から別世界へ移住を目指す姿を、旧約聖書の『出エジプト記』に重ねることで神話的要素を加味した叙事詩として構成されている点に特徴がある。

西野のオンラインサロンやこの映画に宗教性があると言われる所以は、この閉塞した現代の日本社会で行き場を失った迷える子羊達を救うために、自ら十字架(世間から叩かれて)にかけられ、のちに復活したイエス(神の子)をキリスト(救い主)として西野に重ね合わせ信じているからである。

聖書のたとえ話にこういう話がある。

さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。
するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった。あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』というであろう。いっておくが、このように、悔い改める一人の罪びとについては、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。                                     
【 ルカによる福音書15章1~7節】

イエスがこのたとえ話で語りたかったのは、神から離れてしまった人の救済についてである。羊は本来、群れで行動する動物だが、何かの拍子に群れからはぐれると、飼い主が捜し出さないかぎり、立ち往生して飢え死にしてまう。その羊のように、神からはぐれてしまった人を救うことが、九十九匹の群れに気を配るよりも重要なのだという。

この話、信じるか信じないかは、、、

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まあそれは観る前から分かっていた事ではありますが、アニメ評論家の岡田斗司夫さんが忖度無しで批評されたのでほっとしました。

じゃあ逆に思想性が高い作品って何だよ?ってと思われた方はこちらを観るといいと思います。(作家の能力と思想性の違いが分かる)

ほなまたお会いしましょう。バイバイ~♪

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