映画えんとつ町のプペルが物足りない最大の理由
おはようございます。アルキメデス岡本です。
映画えんとつ町のプペル、この映画や西野商法についてあれこれ考察してきましたが、今回はこの映画が物足りない理由についてさらに深堀りしたいと思います。(多分、これが1番重要かも)
■この映画の物足りなさ
何故この映画は物足りないのか世界観や設定面から考えてみます。
作者はブログで世界観のプロローグを公開しています。(参考まで)
その前に世界観のおさらい
えんとつ町
レター家が発明した腐る貨幣Lが基軸になった経済システムを採用している。中央銀行から逃れる為に200年間鎖国している。
地上世界
植物が育たない経済が破綻した世界。中央銀行によって金持ちだけが優遇されている。
異端審問所
えんとつ町の秘密を守る為に異端者を監視取り締まりしている。外の世界を知る事はタブーとなっている。
あらすじ
200年前の元々の世界では資本主義社会の問題点である格差問題が起きて、貧富の差が激しくなっていたようだ。
そこで経済学者のシルビオ・レターが腐る通貨「L」を発明し街の経済を建て直したが、中央銀行に弾圧されて死刑となった。その後、子孫がえんとつ町に逃れて「L」を復活させてから200年の時が過ぎた。
つまり、200年間の間に過去の歴史は忘れられ、外の世界を見た人間はもう誰もいなくなっていた。唯一、その歴史を知っていたのはレジスタンスのスコップ。爺ちゃんから昔話のようにその話を聞かされていて、その話をうっかりブルーノに話してしまう。それを伝え聞いたブルーノは紙芝居で町中にその話を広めていったが、突如、消息を経つ。残された息子のルビっちは、ブルーノの話を信じて外の世界へと旅立つ。
■敵対勢力との攻防がいまひとつ
ここまでの設定をみるとマトリックスや進撃の巨人と似ていて、外の世界から断絶されていてその謎を解き明かしていくという話で面白そうだし、こういう設定は好きな世界観なのだが、マトリックスや進撃の巨人などに比べると世界を支配している側の敵対勢力の描き方がえんとつ町のプペルでは弱い。
例えば、マトリックスでは電脳空間マトリックスの監視や破壊行為の防止のために作られた人間型ソフトウェアエージェントのエージェントスミスが不気味な怖さと強さで主人公のネオを追い詰めていく緊張感がある。
進撃の巨人では、マーレ国が巨人化能力者(マーレの戦士)達をパラディ島に送り込み、壁内を侵略して始祖の巨人を手に入れようとする攻防が描かれておりその攻防に迫力がある。
しかし、映画えんとつ町のプペルでは異端審問所の敵対勢力としての位置づけが弱く、プペルやルビっち達を追い詰めていく攻防がショボイ。その為、迫力不足でストーリーが平坦になってしまっていてつまらない。
■オタクを唸らせる程の魅力がない
この映画には、通貨「L」やえんとつ町などその映画独自の世界観はあるが、オタクを唸らせる程の魅力がない。
例えば、進撃の巨人であれば立体機動装置のような敵を倒す為の特殊兵器や装備があったり、巨人になる為の特殊能力があったりする。壁に囲まれたエルディア国やマーレ国の世界観も作り込まれている。
スター・ウォーズであれば、ライトセイバーやジェダイの騎士にはフォースの力が備わっていたり、主人公に感情移入しやすい特別な能力が与えられている。銀河帝国の国家観や歴史も細部まで作り込まれている。
しかしながら、プペルやルビっちはただの人間で周りから馬鹿にされたり叩かれているだけで、何か特別な武器を使いこなしたり人類を救い出す為の特殊能力がないので、ヒーロードラマとしての魅力がない。えんとつ町や外の世界の世界観の作り込みが薄っぺらいので見応えがなくつまらない。要するに子供達やオタク達が世界観にハマる要素がない。
■アニメ映画としてのパワーがない
映画えんとつ町のプペルでは、ルビっち、プペル、ブルーノの3人の絆と夢を追う冒険物語でもあるが、そもそもアニメ映画としてのパワーが足りない。
例えば、ドラエモン映画の場合、ダメ人間ののび太が普段はいじめっ子のジャイアン達と仲間になって敵対勢力や地球の危機を救っていったりする。キャラクターの全員が持てる力を発揮して映画の中で成長していくところに力強さがある。
ワンピースであれば、ルフィーを中心に仲間達が結集し、敵対勢力達とフルパワーで死闘を繰り広げる。その中で仲間達や敵との間で友情が芽生える物語にダイナミックさがある。
しかしながら、えんとつ町のプペルではルビっちの個人的な冒険が中心になっているだけで、世界を変えるような壮大な戦いがなく仲間との協力も薄っぺらかった。最大の友達であったプペルとの心が通い合うシーンも最後までないまま、ブルーノとの思い出にすり代わってしまい最後のクライマックスにもパワーがなく感動できなかった。
というように、全体的な世界観とアニメ映画としての作り込みが狭義な為、他作品と比べるとどうしても甘っちょろくて、パワー不足だった 。
■ストーリーテリングが中途半端
この終わり方だと続編があるから、次に期待したいというレビューもよく見かけるんだけど、マトリックスとかアバター、ターミネーターなんかのシリーズものは第1作に革新的的なインパクトを残してこそ、シリーズものとしての高評価を得ているので映画えんとつ町のプペルのこの終わり方だと厳しいと思う。
絵本で描かれていない映画用のシナリオが元々あって、この映画はその一部に過ぎないと作者の西野は言っていたが、1番重要なシナリオと世界観の魅力が薄っぺらいのが最大の弱点でしょう。そこに、個人的な主張やメッセージに力を入れすぎていて、肝心な舞台設定が貧弱だった。これだと自己啓発映画としての色が強すぎて、一般層のお客さんが置いてけぼりになってしまう。
夢を語れば笑われた、その世界を終わりにする。うん、気持ちは凄い分かるよ。それとこの映画はエンタメ映画というよりも、経済的な格差問題や差別問題を描いていて、その世界を変える事をテーマにしている。でもこれだけじゃつまんないんだよね。
ディズニーを倒せる大衆娯楽エンタメ映画として、お客さんを楽しませたいのであれば、もっと工夫が必要です。
例えば、世界のストーリーテリングのプロと呼ばれるアニメーションスタジオのピクサー。彼らは多くの人を魅了するストーリーを日々生み出している。
ピクサーが開いたストーリーテリングのオンライン講座で主張されていることは、ストーリーテリングは何かすごいことを話さなくてはならないと考えている人が多いがそれは間違いだということ。ストーリーは自分の中からしか見つけられなくて、それを受け取る人も自分の中と照らし合わせて共感が生まれるというのがストーリーテリングの本質だと。
えんとつ町のプペルの場合、世界観やテーマなどそれぞれの素材は魅力的なのだが、夢を達成するまでのクッション(攻防)が弱いのと自分達の信じたいものだけを信じていて、その語りが強すぎる。それによって、思想の対立や主人公が葛藤や苦悩しないまま、ストーリーが一方向だけに進んでいく。この構成だと感情の浮き沈みがなく平坦なままなので、思想性の低い中途半端なストーリーテリングで感動が起きる設計になっていない。
結局、攻殻機動隊やマトリックス、銃夢などの細部までシナリオの世界観とシナリオが作り込まれている作品を観てきた、サブカルアニメ映画好きな私を唸らせるものではなかった。これがこの映画の物足りない最大の理由だ。
■まとめ
ぶっちゃけ、まあこれが西野エンタメアニメの限界かな~と思いますね。
まあ絵の上手い芸人さんというのは認めるけど一流のクリエイターと比較するのは酷だよなやっぱり。
ジブリやディズニーのように独自の世界観を作って色々、横展開したいんだろうけど、「えんとつ町のプペル」のIPだとパワー不足かな。
ディズニーを倒すって言うからもっと大味な面白いエンタメ映画を期待してたけど。まあ勝手に期待しすぎた部分があるんだけど、言うほどたいしたことなかったね(笑
というか、この映画はエンタメ映画というよりも、自己啓発系ビジネスオンラインサロン自主映画みたいなジャンルだよね。
あとさぁ、この映画のベースになっている夢を語って芸人仲間に笑われていじめられた話、引っ張りすぎじゃない。もうその話は聞き飽きたよ。同じ話を何度もくどくど話しすぎだよ。
このつらい体験がきっかけでルビっち少年(西野亮廣)とプペル(西野亮廣)が生まれた訳だけど、これはインナーチャイルドだよね。通常、人は成長するに従い、思考や行動が成熟していく訳ですが、何らかの理由でインナーチャイルドが根付いてしまうと、年齢を重ねても成熟した考え方ができなくなってしまいます。
インナーチャイルドとは、大人になっても変わらないまま続いている、子ども時代の思考パターンや習慣を指す言葉です。
西野の心の苦しみはもう十分分かったから、もうういい加減、負の感情を手放してプペルから卒業しましょうね。今度はもっと違う新境地の新しい作品を作っていってくれよ。みんなが楽しめるエンタメをさ。
まあいい夢みさせてもらったよ。
ほなまたお会いしましょう。バイバイ~♪
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