シン・日曜美術館「トム・ウェイツのTom Traubert's Blues」(深読み プリンス⑩)
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1989年5月某日(日曜)午後
藪蔦屋 りうていの間
よし。それじゃあ次は5番だ。
今度こそ僕が読み解いてみせるぞ。
ははは。そいつは楽しみだな。
それでは5番を見てみよう…
前半部でトム・ウェイツは、こう歌っている。
No, I don't want your sympathy
The fugitives say that the streets aren't for dreaming now
普通に訳すと、こんな感じだな。
俺はお前たちの共感が欲しいのではない
逃亡者は言う、今や道は夢を見るための場所ではないと
うーむ、何のことだろう…
「逃亡者」がポイントだと思うんだけど…
そうだな。明らかに意味深な言葉のチョイスだ。
そして、こう続く…
And manslaughter dragnets and the ghosts that sell memories
They want a piece of the action anyhow
「manslaughter dragnets」って何だ?
男の笑い声で包囲網?
「manslaughter」とは法律用語でいう「故殺罪」、つまり「殺意なく、不法に殺害する罪」のことだ。
なるほど。つまりこういうことか…
殺意なく不法に殺害する罪の包囲網と、思い出を売る幽霊
とにかく彼らは分け前が欲しかった
うーむ。よくわからん。何のことだろう?
「逃亡者」が言う「今や道は夢を見るための場所ではない」がヒントだな。
このセリフは二通りの解釈が取れる。
1つは、逃亡者が夢を見るのは道以外の場所ということ…
そしてもう1つは、逃亡者が道で見るのは、夢ではなく現実だということ…
道以外の場所で夢を見る? 道で見るのは夢ではなく現実?
いったい「逃亡者」は誰のことなんだ?
よく考えてみろ。
『トム・トラバーツ・ブルース』はカール・ブロッホの『磔刑図』を題材に歌ったもの。
この重大な局面における「逃亡者」とは?
『Crucifixion』
Carl Bloch
あっ、そうか。
十字架刑に立ち会わなかった「逃亡者」とはペトロ…
イエスの裁判を見ていた時に「あなたはイエスの弟子ですよね?」と聞かれ、「YES」と答えず「NO」と否認して逃亡した筆頭弟子…
『The Denial of Saint Peter(ペテロの否認)』
Gerard van Honthorst(ホントホルスト)
その通り。5番における「逃亡者」とは使徒ペトロのことだ。
だけど他の部分がわからないな。
「共感はいらない」とか「故殺の地引網」とか「思い出を売る幽霊」とか「夢」とか「道」とか「分け前」とか…
その答えは「a piece of the action」にある。
あれは「分け前」という意味だけではなく「なぞなぞ」にもなっているんだ。
なぞなぞ?
では聞くが、「action」の定義は?
アクションの定義? 行動、かな?
大きな「行動」を意味する「action」とは、個別・局所的な「行為」である「act」の集合体だ。
つまり「a piece of the action」とは、大きな「action」の一部「acts」ということ。
「a piece of the action」は「acts」…
言葉で理解できない時は、頭の中で図にしてイメージしてみるんだ。
うん… こんな感じかな…
そうそう。それが「a piece of the action」である「acts」だ
つまり5番を読み解く鍵は「acts」というわけさ。
もしかして、この「acts」って…
イエス昇天後の使徒の活躍を記した『使徒言行録(使徒行伝/使徒の働き)』のこと?
その通り。
新約聖書で『ヨハネによる福音書』の次に来る『Acts of the Apostles』…
たいていは省略して『Acts』と呼ばれる。
まさに「a piece of the action」だな。
だけどなぜトム・ウェイツは『使徒言行録』を5番に?
カール・ブロッホの『磔刑図』、つまり『ヨハネによる福音書』の十字架刑の場面を題材にしてるんだろう?
それと『ワルチング・マチルダ』もな。
だからトム・ウェイツは『使徒言行録』を持ち出したんだ。
は?どういうこと?
『使徒言行録』のペトロにまつわる最も有名な場面が関係している。
そういえば『使徒言行録』の中には、ペトロが奇妙な夢を見る場面があったよな…
トム・ウェイツが歌ったように、路上ではなく、どこかの家の屋上で…
その通り。「Peter's Vision(ペトロのビジョン)」だ。
イエスの昇天後、各地の教会や信徒を尋ね歩く旅に出たペトロは、ヨッパ(現在のテルアビブ・ヤッファ)の南東にある町を訪れた。
その町の名は「ルダ」…
9:32 ペテロは方々をめぐり歩いたが、ルダに住む聖徒たちのところへも下って行った。
町… ルダ…
ルダの町でペトロは、まるでイエスばりに、寝たきりの病人を治すという奇跡を行った。
するとヤッパの信徒がこれを聞きつけ、ルダの町にいるペトロを呼びに来た。
人々のために働き、様々な施しを行っていた女タビタ(かもしか)が死んでしまったので、ぜひ見に来て欲しいと願い出たんだ。
さっそくペトロは港町ヤッパへ赴き、信徒の家の屋上に置かれていたタビタの遺体に向かって「起きなさい」と言った。
すると彼女は生き返り、何事もなかったかのように起き上がった…
9:39 そこでペテロは立って、ふたりの者に連れられてきた。彼が着くとすぐ、屋上の間に案内された。すると、やもめたちがみんな彼のそばに寄ってきて、タビタが生前つくった下着や上着の数々を、泣きながら見せるのであった。
9:40 ペテロはみんなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。それから死体の方に向いて、「タビタよ、起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起きなおった。
すごいなペトロ… こんなスーパーパワーがあったなんて…
彼も普通の人間ではなかったのか?
いや。ペトロは普通の人間だ。
奇跡を起こしていたのは彼の力ではなく聖霊の力。
ある目的のために、この時だけ奇跡が行えるようになっていたのだ。
目的?
まずペトロは病人を癒し、それから次に死者を復活させる。
なぜか屋上で上着や下着を見せられ、人々に尽くして死んだユダヤ人女性「かもしか」を蘇らせるんだ。
この「かもしか」という意味の名をもつ女性タビタは、何だか「贖いの子羊」イエス・キリストみたいだな。
遺体が置かれていた屋上は「ゴルゴダの丘」だ。
イエスが十字架に掛けられた時も「上着と下着」がフィーチャーされた。
その通り。
『使徒言行録』の「ペトロのヴィジョン」の場面では、イエスの物語が形を変えて再現される。
イエスが「言い忘れた重要なこと」を伝えるためにね。
言い忘れた重要なこと?
ヤッパで「かもしか」を蘇らせたペトロは、同地に住む「皮なめし職人のシモン」という人の家にしばらく滞在する。
このシモンの家の屋上でペトロは不思議な夢を見て、イエスの重要なメッセージを聴くわけだ。
シモン(SIMON)という名は、ヘブライ語で「LISTEN(聴く)」という意味だったな。
そしてペトロの本名だ。
そして「皮なめし職人」とは、様々な動物を屠殺して皮を剥ぎ、それを人々が使えるものにする仕事。
これは律法で定められた清浄規定の厳格なルールと手順に従って行わなければならない。
それが守られていれば「カシェル」つまり「適法」になり、守られなければ「違法」つまり「穢れ」になってしまう。
あっ、思い出したぞ。
ペトロが屋上で見た夢って、そういう内容だった。
その通り。ペトロが皮なめしシモンの家に滞在したことも「夢の伏線」だったというわけだ。
ルダの町での奇跡から、港町ヤッパでの夢まで、すべては神の描いたシナリオ通り…
ペトロは自分が神の敷いたレールの上に乗せられ、イエスの物語をトレースしていたことに気付いていなかっただけのこと。
そして、皮なめしシモンの家に、3人の異邦人が面会を求めてやって来るんだよな。
その通り。
皮なめしシモンの家にいるペトロを訪問した3人の異邦人とは、ローマ帝国軍イタリア隊の百卒長コルネリオの側近と従者たちのことだ。
これは、空に輝く不思議な星を「よき知らせ」と読み解き、「新しいユダヤ人の王」が誕生したことを悟り、イエスが生まれた家畜小屋を訪問した「東方の三博士」を再現したものだな。
彼らを派遣した百卒長コルネリオは、ローマの軍人でありながらユダヤ人の神を崇拝している人物だった。
しかし、コルネリオもその側近もその従者も割礼を施しておらず、定められた律法のすべてを順守しているわけではないので、ペトロたちユダヤ人から見れば、家に招き入れたり寝食を共にしてはいけない「穢れた人間」ということになる。
だから「ペトロのビジョン」の後、ペトロと面会することが出来たコルネリオの側近は、こんな風に上司のことを説明した。
10:22 彼らは答えた、「正しい人で、神を敬い、ユダヤの全国民に好感を持たれている百卒長コルネリオが、あなたを家に招いてお話を伺うようにとのお告げを、聖なる御使から受けましたので、参りました」。
これが5番冒頭「No, I don't want your sympathy」の元ネタか…
ペトロと接見した3人の使者は、百卒長コルネリオが「ユダヤの全国民に好感を持たれている」とアピールした…
そう説明することが、ユダヤ人のペトロに対して最も効果的だと考えていたから…
しかしイエスの教えは、そんな「共感」など必要としない…
そして、皮なめしシモンの家で「The fugitives(逃亡者)」のペトロが「the streets aren't for dreaming now」を体験する。
路上ではなく屋上で夢を見るわけだ。
10:9 翌日、この三人が旅をつづけて町の近くにきたころ、ペテロは祈をするため屋上にのぼった。時は昼の十二時ごろであった。
10:10 彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った。そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。
ん?
どうした?
何だろう… この既視感は…
ハハハ。もうすぐわかるさ。
ここからがペトロの見たビジョン、まるで白昼夢のような不思議な幻だ。
10:11 すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。
10:12 その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。
10:13 そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。
『Peter's Vision(ペテロのヴィジョン)』
あっ…
そしてこう続く。
10:14 ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。
10:15 すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。
10:16 こんなことが三度もあってから、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
上空から降りて来た「四隅を吊るされた大きな布のような入れ物」には、様々な姿形の生き物が入っていて、ペトロの否認が三度繰り返された後に引き上げられた…
まさに「dragnets」…「引き網」だ…
そして、主の意図を理解できないペトロは「manslaughter」について語る…
法律用語の「故殺の罪」ではなく、律法用語の「不浄の罪」…
生き物を「殺意なく、不法に殺害すること」についてだ。
さっきの既視感の正体がわかったぞ…
だからトム・ウェイツは「the ghosts that sell memories」と歌ったんだな…
その通り。
死んだ後も幽霊となって「You'll come a-waltzing Matilda, with me」と人々に言い続けていた『ワルチング・マチルダ』の主人公「放浪者」を「ペトロのヴィジョン」に重ねているんだ。
『And His Ghost May Be Heard(Waltzing Matilda)』
PRO HART
あの「放浪者」も、「逃亡者」ペトロと同じように空腹を覚えていたら、突然「羊」が目の前に現れた…
そして羊を捕まえて「マチルダ」の中に、つまり、四隅を結んだ大きな布の中に入れた…
それを知った羊の持ち主は、三人の警察官を「放浪者」のもとへ送り込む。
腹ペコのペトロに生き物の夢を見せた主と、そこに送り込まれた三人の使者だな。
つまり『トム・トラバーツ・ブルース』のサビとして引用される『ワルチング・マチルダ』は、「ペトロのヴィジョン」をベースに作られていたというわけだ。
なんてこった… こんな仕掛けになっていたなんて…
そのために「a piece of the action」…「Acts」が必要だったんだな…
イエスは生前、弟子たちに「愛」を説いたが、その対象についてハッキリと定義しなかった。
福音書の登場人物は基本的にローマ人を除けば皆ユダヤの神を信じるユダヤ人なので、当然の流れとして初期の教会はユダヤ人に限定されることになる。
だから「ユダヤの律法を遵守しない異邦人が信徒になった場合はどうするのか?」という問題が起こるのは必然的だったわけだ。
そのために神は、腹ペコのペトロに「夢」を見せたというわけか…
大事なことを言い忘れていたから…
言ってはいたんだ。
だけど、その意味を深読みしてくれる者がいなかった。
え?
説法の時にイエスは「私の肉を食べなさい」と言っていた。
人間を殺してその肉を食べることは律法で厳しく禁じられているので、この言葉を真に受けたユダヤ人たちは大騒ぎした。
もちろん本当に人肉を食べるわけではなく例え話なのだが、後にイエスが実際に生贄として屠られることを考えると、これは「清浄・不浄」の概念を取り払うための発言ともとれる…
神が作ったものに汚れたものなどないのだと…
なるほど。
確かにイエスが「私の肉をたべなさい」と言ったことと、ペトロの夢で「これらの動物を屠って食べなさい」と言ったことは対応しているよな…
愛の対象は「人種を問わず、すべての人である」と明確にしたわけだ…
この点もオーストラリア国民に『ワルチング・マチルダ』が愛される理由なのだろう。
オーストラリアは様々な人種的背景をもつ人々が集まって出来た国家だから。
しかし聖書に書かれる「愛」の対象は「全人類」ではなく、あくまで「聖書の神を受け入れた全ての者」のみだろう?
イエスが背負った原罪は、あくまで旧約の原罪であって、アダムとイブを自分たちの祖先だと考えない人たちにとっては、何の意味もなさない。
まあ、そうだな。
だから現代では「神」という言葉を出さずに「神の物語」を語り、「神を称える歌」を歌うことが求められる。
まさに『ワルチング・マチルダ』や『トム・トラバーツ・ブルース』のように。
ようし。残るは6番と7番だ。
今度こそ君の助け無しで読み解いてみせるぞ。
つづく
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