アラン・ドロン主演作『太陽がいっぱい』解説決定版・完結編「すべては受胎告知のために…。はたしてルネ・クレマン監督は何を伝えたかったのか?」後篇
さあ、後半を始めるよ。
ちなみに前回はこちら。
しかし驚きの連続やな…
「ホモセクシュアル映画の第1号」なんて言われていた『太陽がいっぱい』が、原作のホモセクシュアル要素を完全に取っ払った全く別の作品になっていたなんて…
人間というのは、己が見たいもの信じたいものを見てしまう生き物だ。そして影響力の強い人物が唱える言葉は、人々の間で無批判に「正しいこと」とされ、世代を越えて伝搬してゆく。人間の歴史とは、まさにその繰り返しだ。
深いこと言うな。
実は今のがルネ・クレマンという作家が訴えようとしてるテーマでもあるんだ…
この『太陽がいっぱい』と『禁じられた遊び』を通じて…
へ?
おっと、また大きく寄り道をしてしまうところだった。
では『太陽がいっぱい』の解説を始めるよ。
これまで話した通り、この映画はフラ・アンジェリコの絵『受胎告知』をもとにして物語が作られていた。そして数種類あるアンジェリコの『受胎告知』の中でも、2枚が特に重要だったんだ。実を言うと、この2枚の絵の中に描かれていることが『太陽がいっぱい』のストーリーそのものになっているんだよね。
まず1枚目は映画に出てくるコレ。
大天使ガブリエルが処女マリアに「もうすぐあなたは神の子を宿しますよ。どうか受け入れてください」と説得している場面。
この映画風に名付けるなら『三枚舌のガブリエル』かな。
これが映画の前半部分の物語に対応している。主人公トム・リプリーが二つの殺人を犯すところまでだ。
そして映画の後半部分がこちらの『受胎告知』から作られている。ガブリエルの説得が功を奏し、マリアが受け入れる場面。天から光の帯が差し込んで、マリアの体内にイエス(鳩)が入りこむところだ。
名付けて『手首と繋がれたマリア』だね。
オイラ「絵解き」とか「絵画ミステリー」とか大好き!
おかえもん、また詳しく説明して!
オッケー!
まずは第1の殺人。トム・リプリーが道楽息子フィリップをマルジュ号の船上で刺し殺すシーンだ。
『三枚舌のガブリエル』の左上部分、楽園を追放される男女がそれにあたる。
鋭い剣を持つ男は大天使ガブリエルだ。ガブリエルはエデンの園の責任者でもあるんだよね。そしてカップルはもちろんアダムとイブ。
ガブリエルが「ごめんね、主の命令だから仕方ないんだよ。人間誰しも失敗はあるもんさ。それに地上世界も捨てたもんじゃないぞ。達者でな」って励ますようにアダムの肩を叩いてるんだけど、見かたによってはアダムを刺そうとしているようにも見えるよね。剣を突き立てているから。
それで原作の船のシーンを大幅に書き換えたんだね!
原作では小さいボートだったけど、映画では大きなヨットになった。この絵を再現するとなると、殺人が起こる直前までマルジュも居なきゃいけないから。
その通り。
だからフィリップ殺害時にトムが着ていたシャツはこんな色だったんだ。剣を突き立てるガブリエルを再現するために。
ルネ・クレマンは、マジで「こだわりの男」やな。細部まで徹底的にこだわっとる。まるでクリストファー・ノーランみたいや…
おかえもんって、こうゆうの見つけるの好きだよね。
好きっていうか…
間違った風説が流布されているのを放っておけないんだよね。この「『太陽がいっぱい』はホモセクシュアル映画だった!」みたいに明らかに誤った解釈が一般に広まっていることがね。ノーラン映画だってそうだよ。彼のことは大きく誤解されている。だって彼は…
そっちはいいから、絵解きして!
めんごめんご。
じゃあ続けるよ。
フィリップを殺害して海に捨てたトムは、フィリップとマルジュの「モンジベッロの愛の巣」へ向かった。マルジュに嘘の報告をするためだ。この場面は完全に『受胎告知』をモチーフにしている。映画の前半部分で監督のルネ・クレマンが最も力を入れたシーンになっているんだ。
これはマルジュの部屋に入っていくトム。
部屋の作りが『受胎告知:三枚舌のガブリエル』にそっくりだ。
アーチ型の壁、輪っかの装飾、そして上から見下ろすオジサン…
すごいねルネ・クレマン(笑)
『The Talented Mr. Ripley』やのうて『The Talented Mr. Clemant』やで。
そしてトムはマルジュに嘘の情報を伝える。
これは以前解説したように、ガブリエルの話す言葉が三方向に分かれてて、まるで「三枚舌」みたいに見えるところから着想を得たんだろう。
かつて大天使ガブリエルは神のメッセンジャーだった。神というのは畏れ多くて人間はその声を直接聞いてはいけないものだったから、ガブリエルが天と地を行き来して代弁していたんだ。旧約聖書やイスラム教においては、神が最も信頼する右腕だったんだよね。
でもイエスが出現し、キリスト教が誕生してからは、その地位は相対的に格下げされた。イエスは神の子であり神そのものでもあったわけだし、聖母マリアも神のように崇められるようになってしまったからね。ガブリエルは天使の「ワンオブゼム」にまでなってしまったというわけだ。
そんなガブリエルが再び神の寵愛の座を奪うべく行動する…というのが『太陽がいっぱい』の物語だったんだよね。
トムがフィリップを殺した後にリンゴをムシャムシャ食べるのも、『受胎告知』の絵から来るものだったよね…
楽園に落ちている禁断の実を食べてしまったんだ…
二度目の殺人…フィリップのボンボン仲間のフレディを殺した後は、鳥を丸ごとムシャムシャ食っとったな…
まさかあれは…
そう。その「まさか」だよ。
『受胎告知』の絵の中で飛んでいる鳩だ。まあ鳩っていうかイエス・キリストなんだけど。
鳩の左上にまします我らが父よ、罪深きトム・リプリーを許したまへ…
許してくれないんじゃないかな。
だって二回目の殺人の凶器は、その「我らが父」の像だったから…
わわわ!やっぱり絵の中に凶器が隠されていたのか!
しかも同じ「固い物質で作られた神様」っていう、笑っちゃいけないギャグになってる!
本当に罪深き男だね、リプリー君は…
ハイスミスの原作では「灰皿」だったけど、クレマンの映画では「神様の置物」に変わった。
ちなみに布袋尊像の左右を反転させると、よりそっくりになるんだ。手の位置とかね…
やめてクレマ~ン!
いいね、その「やめてクレマ~ン」ってフレーズ(笑)
さて、これで映画前半部が終わった。
次は後半部、『受胎告知:手首と繋がったマリア』からなる物語を見てみよう。
こちらでは『三枚舌のガブリエル』バージョンとは違って、何も言葉を発していない。映画では、もう全ての嘘を語り尽した後のシーンだ。
完全犯罪をやり遂げたトムは、再びモンジベッロのマルジュの部屋へ向かう。
トムに残された仕事は、マルジュを「ものにする」ことだけ。フィリップの遺産を手にするためには、彼女を支配する必要がある。
だから情緒不安定になったマルジュを安心させなければならなかった。偽りの包容力を使って…
無言で重ねられた手!
しかも目つきも似てる!
そうなんだ。
ここでのガブリエルは、不安がるマリアに「大丈夫。何も怖がる必要はないから…」って真剣な眼差しで訴えているんだけど、見ようによってはちょっと表情が怖くも見えるよね。顔の正面が陰になっているから、余計にそう見えるんだ。たぶんルネ・クレマンもそう感じたに違いない。
確かに予備知識や先入観が無い状態でこの絵を見たら、羽の生えた化け物が女の人を騙そうとしているように見えるだろうね…
だって、外にいる女の人も「あいつに騙された」って感じで恨みたっぷりに睨んでるし…
しかも手にはナイフが強く握りしめられとる…
まるで「私の恋人の命を奪ったこのナイフで仇を討とう」って勢いや…
ホントにそう見えるよね。かなり怖い。
でも、こういう見方もできる…
よく見るとアダムとイブは同じ服を着てる。そっくりなんだ。これってトムとフィリップみたいだよね。そしてイブが不穏な表情でナイフを持っている…
そして頭上には大天使ガブリエルがいるんだけど、何かを煽っているようにも見える…
これも最初の殺人シーンみたいだ!
だよね。
ちなみにマット・デイモン主演の『リプリー』では、アダムがちょうど手を押さえてるところをオールで殴ったんだ。
おお!同じポーズ!
さて、絵の中の光の帯は「マルジュ号」のスクリューに絡まっていたロープだったことや、その先にある手首は死体袋から飛び出したフィリップのものだったことは前回に話したから割愛するとしよう。
もうこんなもんかな、絵解きに関しては…
また壁に彫られてる怖いオジサンは?
大丈夫。ちゃんとガブリエルの一挙手一投足を見ているよ。
ほらね。
どこ?
父はしっかりとガブリエルを見ている…
決して目を離すことはないんだ…
ちゃんと見てるよ!マジ怖え!
部屋の中だけではないよ。
市場でもそうだった…
ガブリエルは常に多くの目によって「監視」されていた…
せやからエキストラの連中はジロジロ見てたんか!
てっきり予算をケチって一般人をそのまま使ったため、そうなったんかと思ってたで!
昔の映画みたいに!
魚もガブリエルを見ていた…
魚とはイエス・キリスト…つまり神のことだ…
神ってゆうか宇宙人。
ガブリエルが潜伏してたローマの安宿「楽園亭」でも…
こんな風にいつも壁から監視されていた…
ひえっ!
「壁に耳あり」じゃなくて「壁に目あり」だ!
ちなみにガブリエル(トム)の定宿の名前は「PARADISO(楽園)」だった。ガブリエルは天使の身分だから、神の住むところより下のレベルなんだ。ガブリエルが管理してた「エデンの園」って、天上界と地上世界の中間みたいなところだからね。
だけどイエス(フィリップ)になりすました時は「HOTEL EXCELSIOR」に泊まる。「より高きところ」つまり、天上界だ。
徹底してるね…
物語が完璧に聖書の世界に置き換えられてる。
ルネ・クレマンが原作にあった同性愛要素を完璧に排除しとるのが、ようわかるな…
そうだね。
最後に僕がこの映画の「一般的解釈」に疑問を抱くきっかけになった対談を紹介しよう。作家・吉行淳之介の『恐怖対談』に収録されている映画評論家・淀川長治氏との対談だ。
『太陽がいっぱい』について淀川さんが熱く語る…
淀川:それに、あの映画はホモセクシュアル映画の第1号なんですよね。
吉行:え、そんな馬鹿な。
ここから「太陽がいっぱい=ホモセクシュアル映画」説が広まったんやな。
その通り。対談はこんな風に進む。
淀川:あれ見たら完全にそうですよ。貧乏人の息子のアラン・ドロンが金持ちの家に、坊ちゃんを連れ戻しに行く。彼は金持ちの坊ちゃんのすべてが好きになっちゃうのね。ワイシャツから、ネクタイから、靴から、全部自分のものになったらいいなあ思う。坊ちゃんのほうはそんなもの飽きて困ってる。そして、そんなものほしがる子供みたいな男を喜ぶのね…(以下省略)
吉行:違うと思うんだがなあ。
おかえもんは吉行淳之介と同じように「違うんじゃない?」って思ったってわけだね…
うん。そうゆうことだ。
そしてこんな風に続く…
淀川:ちょっと待って(笑)。どっちも無いものねだりで、憎らしいけど離れられない。それがだんだんクライマックスになってくるとエキサイトしてくるのね。それは、俺が憎いんだろう、憎いんだろう、憎いんだろうで、とうとう殺すところまでゆく。そして殺しちゃった。なにもそこまでエキサイトしなくてもいいのに、エキサイトして片っ方は死んだ。そして、死体になっても、ふたりは離れられないのよ。
吉行:今それを言おうと思った。スクリューに絡みついて死体が離れない。それは淀川流解釈では、そういうことになるんでしょう、と。
淀川さんの言ってる内容は、ハイスミスの原作のことだよね…
だけどルネ・クレマンの映画では…
そうなんだよ。映画では「好き過ぎて憎らしくなる」って描写は無いんだ。
淀川さんは、トムがフィリップの服を着て鏡の中の自分にキスをするシーンを「フィリップへの愛が高じて同一化を求めた行為」って解釈してる。
でも違うんだよね。映画の中のトムはフィリップへ性的関心を抱いていない。百歩譲って「抱いていた」としても、そこまでこじらせていないんだよね。
ルネ・クレマンはこのシーンでは単純に「裏切りの接吻」を描きたかったんだと思うよ。イスカリオテのユダが、イエスにキスした場面を。
『ユダの接吻』ジョット・ディ・ボンドーネ画
口の突き出し方が一緒(笑)
しかもユダがマントでイエスを包んで同一化してるみたいに見える!
たぶんクレマンは、この絵をモチーフにしたんだと思うな。
そして鏡へのキスの後に「ムチを片手に怒るフィリップ」が登場するよね。
この描写を「二人はサド&マゾの関係なんだ」なんて踏み込んだ解釈をする人たちもいるんだけど、残念ながらそうではない。
これは、聖なる神殿を汚す者に対してムチで威嚇しながら激怒したイエスを再現していたんだったよね。
毎度感心するけど、よう見つけてくるな。同じような服装のものを。
検索するとすぐに出て来るから、こういう色って決まっているんじゃない?
さて、対談の引用を続けるよ。
淀川:もうちょっと待ちなさい(笑)。アラン・ドロンの方は、洋服からタイプライターから、全部自分のものになった。そこでサインの練習をするでしょう。
吉行:あれが面白かった。いつか深夜劇場で見たらカットされていましたけれど。
淀川:あれ、大きなサインでしょう。プロジェクターで伸ばして練習するでしょう。まるでキスマークみたい。あんな大きくする必要ないのに、大きく大きくする。あれ、一所懸命、片っ方の唇をなすってるのね。
吉行:それはどうですか……。
あのサインの練習は、確か旧約聖書にあるシーンの再現だったよね…
何だったっけ?
ダニエル書や。バビロニア王ベルシャザルの宴での出来事やったな。
宴の席で突如、光と共に手首が現れて、壁に不思議な文字を書きよった話や。
「メネ、メネ、テケル、パルシン」と書いたんだったよね。そこで王は夢解きの名人ダニエルに、これが何を意味しているのかを尋ねた。でもダニエルにもわからなかった。
でもその夜、ダニエルのもとに大天使ガブリエルが現れて、こっそり意味を教えてくれたんだ。
その意味とは「ベルシャザルは王の器にあらず。やがてバビロニアは滅び、その富は異民族に奪われるだろう」だった…
道楽息子フィリップから財産を奪おうとするトムに相応しい逸話だよね…
天才的だよね、ルネ・クレマンは。
さて、対談の続きだ。
淀川:なぜ、そんなことわかるかいうと、映画の文法いうのがあるんです。一番最初、ふたりが遊びに行って、3日くらい遅れて帰ってくるでしょう、マリー・ラフォレの家へ。マリー・ラフォレのこと絵本でも買ってごまかそういって。ふたりが船から降りる時ね。あのふたりは、主従の関係になっている。映画の原則では、そういう時、従のほう、つまりアラン・ドロンが先に降りてボートをロープで引っ張ってるのが常識なのね。ところが、ふたりがキチッと並んで降りてくる。こんなことあり得ないのよ。そうすると、そばで見ていたおじいちゃんが、あのふたり可愛いね、いうのね。そして、絵本渡したら、マリー・ラフォレ怒ってしまうでしょう。あの映画、マリー・ラフォレとモーリス・ロネ、マリー・ラフォレとアラン・ドロンのラヴシーンはほとんどないのね。
吉行:うーん、映画の文法か。説得力が出てきたな。
二人を乗せた船のシーンって、これだね。
きっとこのシーンはね、イエスの誕生を描いているんだよ。
ローマは神と天使の世界だった。「ホテル Excelsior」が至高の座で、「Paradiso亭」はエデンの園。
イエス(フィリップ)と大天使ガブリエル(トム)は主に命じられた「地上での仕事」の前に、天上世界を満喫していたんだ。しばらく地味な地上で暮らさなければいけないからね。言ってみればイエスの「天国さよならパーティ」だ。
そしていよいよマリアの胎内に向かう。そしてイエスが誕生し、成長したのちイエス・キリストとなる。
この小舟の移動は、人間世界にイエスが現れる姿を描いているんじゃないかな。僕にはこれが「三位一体」を表しているように見えるんだ。船頭のオジサンが「父」、フィリップが「子」、そしてトムが「精霊」だね。もしくは洗礼者ヨハネの場面かもしれない。
そう見えんこともないな。
小舟を降りたフィリップが靴から水を出すんだけど、これって「足に香油を注がれし者」のことだと思うんだよね。もしくは洗礼後の姿か。
わざわざこんな風に水を出すシーンを入れるってのは、もう間違いないよね。
だけど吉行さん、危うくなってきた…
淀川さんの勢いに押されてきてるよ。
映画にはマリー・ラフォレとモーリス・ロネのラヴシーンが、かなりあったのにな…
よく思い出すんや、吉行はん!流されたらアカン!
アラン・ドロンのマリー・ラフォレとのラヴシーンは、構成上あまり描けないよね。トム・リプリーは童貞っぽかったから。ベルギーおばさんへの愛撫の拙さは衝撃的だったもんね。あれじゃあ、ママにおっぱいをねだる子供だよ(笑)
それに、いくら何でも恋人が行方不明になってその親友が死んでいるのに、他の男といちゃつくってのはちょっと有り得ない。
さて、対談を続けるよ。
淀川:そして、モーリス・ロネを殺してしまって、最後のシーンがくるでしょ。その時に、ヨットが一艘沖にいる。あれは幽霊なの。おまえもすぐ俺のところへ来るよ、という暗示なのね。
吉行:なるほど、あのヨットは何だろう、とおもっていた。
淀川さんの言ってるヨットは、これのことだね。
実はこのヨット、ラストシーンだけでなく、映画途中でもちょくちょく映っているんだ。いつも後ろに小舟がくっついているんだよね。
そして本当のラストシーンでは、こんな風になる。
あれ?後ろの小舟は?
最後にマルジュ号に繋がっていたフィリップの死体が上がったから、消えてしまったんだ。つまりこのヨットは、マルジュにフィリップの居場所を訴えていたんだね。
「船の後ろに死体が繋がってるんだよ!」って。
でもマルジュはそれに気付かなかった。マルジュとトムが海岸沿いを歩く時、必ずこのヨットが浮かんでいたのに…
淀川はんの言う「幽霊」は、ある意味当たっとるな。そやけどそのメッセージはトムやのうてマルジュに向けられとったのか。
そうゆうことだ。
ちなみにラストシーンがこの海岸になったのも『受胎告知』のせいなんだ。
レオナルド・ダ・ヴィンチ版の『受胎告知』だけどね。
ん?なんで?
絵の中央部分、遠くに見える景色をよく見てごらん。
ああ~~!
海と山とヨット!
ね?
笑えるでしょ?
さて対談はラストシーンのアラン・ドロンについての話題となる。
淀川:そこへあなたのいうシーン、太陽がいっぱいのシーンがくる。足をバンとあげて喜んじゃう。その前に、マリー・ラフォレと濡れ場があるはずなのね。ちょっとあるんだけど、それは見せない。で、電話がかかってきて、そうかといった時にワインのグラスを持った。彼の手が若くて美少年らしい。それと一緒にモーリス・ロネの死体の手が写るのね。ダブって。握手してるのね。そこへ、また呼ばれていっちゃう……あれは後追い心中なのよ。
吉行:はあ-っ(笑)。映画の文法として、ふたり一緒に降りるというのはおかしいというところ、迫力がありましたね。
淀川さんは、トムが海の家でグラスを持つ手とフィリップの死体の手が重なり「後追い心中」になると言う。
でもあのシーンはそうじゃないんだ。
あれはトム・リプリーが「死刑になる・地獄に堕ちる」ってことなんだよね。あのグラスは「毒薬」を意味してるんだ。
し、死刑!?
あのグラスが映る前に、2つの重要なものが映るんだ。
まずはコレ。ごうごうと燃えるピザ窯。
そして次に映るのは、コレ。
刑事の後ろにある、なにか輪っかみたいなもの。
つまり…
グラスの酒が「毒による死」で、ピザ窯の炎が「火あぶりの刑」で、輪っかが「絞首刑」ってことか…
吉行さん、感心してる場合じゃない…
そして対談は、こう〆られる。
淀川:ふたつの殺しがあるのね。ひとつはモーリス・ロネの、もうひとつは憎ったらしい太っちょを殺すの。ちゃんと分けてる。太っちょのほうは銅像みたいなのでガーン。モーリス・ロネのほうはナイフで刺す。刃物で殺すのはラヴシーン、前のは単なる殺しですよ。片っ方のは夢の殺しなの。殺せるか、殺せるか、殺せるか試してごらん、とうとう殺してくれたというね。
吉行:ぼくは、貧乏人と金持ちというパターンであの映画見てましたけどね……。
淀川:また、監督がルネ・クレマンだから、いえるのね。
吉行:そうですか……。いや、勉強になりました。長いこと小説家やってて、そこに気がつかないんじゃ駄目だな。
淀川:善良なのよ、あなたさんは。これはさっきの仇討ち(笑)
吉行:いや、こわかったですねえ、勉強になりましたねえ(笑)
吉行さん、いい人(笑)
対談っちゅうか、接待やな。
でもこれが後世、ある種の定説になってしまったんだ…
これまでの僕の解説でわかったと思うけど、「太陽がいっぱい=ホモセクシュアル映画」は明らかに誤った解釈だった。
でも、なんでルネ・クレマンは、こんなことしたんやろな?
僕も最初は疑問だった。
なぜ原作をここまで大きく改変して、こんな宗教的な物語にしたんだろうって…
確かに1960年当時、難しい制約はあった。まだ同性愛描写を堂々と描くことのできない時代だったからね。フランスでは法的な規制もあったんだ。
原作者も驚いたんだよね、出来上がった映画を観て。
だって原作者のハイスミスは怒ってしまったんだよ。「アラン・ドロンのトム・リプリーは素晴らしいけど、物語が書き換えられ過ぎている。これは私の物語ではない」ってね。
ルネ・クレマンがここまで話を変えてしまうのは、僕にもその意味がよくわからなかった。謎解きしてる時は面白かったけど、どうしても「では、なぜ?」って考えてしまうからね。
でもね、ようやく僕はその真意を理解することができたんだ…
ルネ・クレマンが本当に伝えようとしていたことを…
えっ!?
わかったのか!?
実はね…
『太陽がいっぱい』の8年前に発表されたルネ・クレマンの代表作『禁じられた遊び』に秘密が隠されていたんだよ。
へ!?
『禁じられた遊び』に!?
この映画は『太陽がいっぱい』ととてもよく似てるんだ。
大きく書き換えられた原作…
誤って解釈された物語…
この映画は決して「反戦」を訴えた映画ではないんだ。
そして「汚れた大人たちと子供の純粋さ」を描いたものでもない。
そんな生易しい物語じゃないんだよ。日本人は半世紀にもわたり大きく誤解してしまっている。
そしてこの映画は『太陽がいっぱい』の原点でもある。『太陽がいっぱい』は『禁じられた遊び』の後日談なんだよ…
ご、後日談!?
アラン・ドロン演じるトム・リプリーは、『禁じられた遊び』の少年ミシェルが成長した姿なんだよね…
えええ~~~!?
というわけで、次回からは『禁じられた遊び』の徹底解説をするよ。
ルネ・クレマンが何を伝えたかったのかを理解するには、『禁じられた遊び』の本当の意味を知る必要があるからね…
では、また。
予想外の展開だ…
ーー続くーー
アラン・ドロンの代表作が野沢那智の吹替2バージョン付き・4Kマスター、91分の特典DVD付きで登場!
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