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作品批評をしたいが「非作品評価」をせねばならない理由〜ドラマ『エルピス』が放映されたことについて〜

 主演の長澤まさみが台本を読んで、即、どこの局での制作かも問わず出演を快諾したことで有名な関西テレビ発信のTVドラマ『エルピス』。全10話で、脚本はあの不朽の名作ドラマ『カーネーション』の渡辺あやである。『カーネーション』を日本のドラマ作品の最高峰と位置付ける私は、この脚本家が6年の歳月をかけて書き上げたと言われるこの作品を、フジサンケイ・グループ系が作ったからという浅薄な理由で等閑にふす気があるはずもなく、きちんと心技体を没入して観た。

 ドラマや映画作品を評価するに際しては、もちろん多様な視角がありうる。「作品としての」評価(どれほど優れた「絵空事」が作られているのか)もあれば、物語を作った者(作家、監督)の脳内世界に注目することもある。
 その意味では、頭の中は渡辺あやの選んだ台本ラインで頭がいっぱいだ。彼女の脚本のクオリティはすごみを増していて、台詞のひとつひとつを、役者の表情を観ながら、その時々に噛み締めていけるほどのものだから、そこはもうあまり書くことがない。この世に渡辺あやが存在してくれたことに感謝する、と言う以外にない。

 せねばならないのは、非作品評価についての話だ。

 放映終了後、よくよく言及されるのは「よくぞ放映できたものだ」という、今日のドラマ制作事情を念頭に置いた反応である。しかし、これは本来ドラマ批評の本筋の部分ではない。あるドラマ作品が制作されて、それがオンエアされるということは、された時点でもう制作側の意図と意思が表出されているわけであって、それを「よく放映できたものだ」などと評するのは、テレビ制作の業界人(広告会社などをふくめた)の居酒屋トークの範疇のものになるからだ。人々は「放映されたものの内実」こそ語りの対象としたいはずだ。

 しかし、そのことを重々承知で、なおも言及せざるを得ないのは、真実を報道することをその存在意義の中心としているテレビ会社が「どうして普通の報道ジャーナリズムがやるべきことが普通にできないのか?」について、450分もかけて延々とそれを茶の間に問いかけたことへの評価である。

 こんな荒涼たる風景となってしまった報道ジャーナリズムの現状を(国会の決算委員会というまな板に乗せられているという事情だけでは理解できないほど歪んだ、某国営放送のニュース報道など、ほんの一例に過ぎない)、その当事者たち自らが制作して世に問うたという自覚的社会行為に、我々はどういう評価を与えるべきかという話だ。つまり「作って放映したこと自体」への評価である。

 だから作品論ではなく、これは政治の話なのだ。

 結論から言えば、我々(視聴者も含めて)の社会は、まだこういう作品で問題を世に問う力とセンスをちゃんと残しているのだ、ということだ。

 私は、こうした普通のことをちゃんとやるというテレビドラマ制作者たちを支持すると、政治的に表明したい。少々突き放した言い方だが、もっとあっさりと言ってしまおう。「なんだよ。やりゃできるんじゃん」である。

 この言い方には、これまでテレビが我々に示し続けてきた「忖度と配慮と組織防衛とチキン精神」に塗れたていたらくぶりへの失望と絶望という基盤がある。「テレビというものが本当はこの世にどうして必要なのか?」というオリジナルの問いに対して、テレビ側は正面から向かい合っていないと私は思ってきた。
 正確に言おう。向かい合って考え続けている人たちはいるのに、それを我々に十全に示すことに成功していないのだ。そして、それを示す方法は、「そういうコンテンツを心血注いで作ること」以外にない。

 だから問題は、「エルピス以前には、どうしてエルピスのようなものが作れなかったのか?」である。もちろんここには「渡辺あやのような脚本家は地上に一人しかいない」如何ともし難い理由があるが、テレビ報道を仕事にする人たちがこの世に存在する意味と根拠をきちんと詰め、それに依拠して「するべきことをする」ことを阻んでいたものは何なのかを考えることを、「よくやれたよなぁ」というため息程度のリアクションで終わりにさせたくない。「数字(視聴率)」の話以外に興味のない者たちには無縁の話かもしれない。

 私は、これほどの作品を生み出せる優れた才能と気概と勇気を持つ者たちが、公然と、隠然とこの社会に存在していることに安堵すると同時に、「そんなことはできないですよ」と、意識的にも無意識的にも自己規制をする心のモーメンタムに思いを寄せる。
 そのためには、「我々は、本当はいったい何を、どうなることを恐れているのか?」という問題に、曖昧とした不安に代わる、具体的な解答を描かねばならない。

 この問題は、何もテレビ制作の現場だけで起こる問題ではない。我々は、仕事の現場において、いろいろな事態を予想して、かつての悪夢のような展開を下敷きにして、およそ自分の体力と気概の足りなさの逃げ道として、誰からも頼まれもしない忖度をして、悪き展開イメージを弱々しく用意してから、恐る恐る周りを観察して「無理です」とする。
 しかし、その「避けたい事態」は、それを続けて最後まで避け切ることが可能かどうかを想像することを回避した、当座の判断であることが多い。

 ・仕事が増える気がする。
 ・妙な詮索をされる気がする。
 ・ポジションを外される気がする。
 ・上司の過度の不安に巻き込まれるそうな気がする。
 ・直接的な妨害や迫害を受ける気がする。
 エトセトラ。

 その一つひとつは、脆弱で体力、気力、財力に限界がある個人が背負うには重すぎることもある。だから、チームで受け止め、立ち向かえば良いのだが、そのリソースも貧弱だし、そもそも、そういうチーム作り(半径10メートルのデモクラシー!)の仕方を、この国ではどこでも教育してくれない。
 出来事は、人の数だけ異なり、気が遠くなるほど頻繁に世界で起こる。だから、圧力に負けずに正義を貫くための便利帳など地上には存在しない。個別に起こる、すべてに定冠詞がつく出来事に、具体的な個人がその度に向かい合う以外に方法がないのだ。そして、それはキツい。無理だなぁ、と目を瞑る。それはみんなわかっているのだ。

 でも、この作品の中で、渡辺あやは、長澤まさみ演ずるキャスター浅川恵那に度々「信じられる人」「信じられるもの」という言葉を語らせている。本当の絶望とは、「信じられるということがなくなってしまうことなのだ」と言わせている。
 私たちは、そういう「信ずるにたる」ものを、日々のパイ生地のように重なる不安の回避によって封じ込めている。圧にも負ける。しかし、圧そのものではない。圧だと決め、圧には勝てないと、日々積み重ねる弱い判断が、自分自身の天蓋を作り上げている。そして、それこそが「信じることができる」という希望を枯渇させている。

 数千万人の人間に多大な影響力を尚も持ち続けている(未来はわからない)テレビメディアをコントロールしている以上、その責任に鑑みて「やりゃできるじゃん」程度の突き放した言い方には耐えてほしいが、同時に、「我々にはまだそれをふつうにやる力があるのだ」ということも、相互に呼びかけ合う準備がある。ちゃんとやったら褒め合おう。

 渡辺あやが投げた「希望をささえるもの」という物語は、主演女優が台本を読んだ瞬間からもう始まっていた。そのことが、もはや一つの希望であると思う。見直したぞ。長澤まさみクン。

               ☆
 ちなみに、このドラマは市井の人々が知らない、それでいてこの社会を歪めている事情について、色々と教えてくれる。例えば、

 「どうして検察が起訴したものの97.5%が有罪判決となるのか?」

 その理由の一部は、訴追する側(検察官)と判決を下す側(判事)が、「人事交流」という謎の慣例によって、心情的に、職業的に、人的に「つながっている」からである。つまり、難しい司法試験を受けて、困難に打ち勝ってきたエリート仲間のやることに文句をつけづらいのだ。日本のエリートは話を「詰める」より、仲間内で早々に設定しておくことで安心を得るのだ。

 何が司法の独立だよ?

 そういう話もてんこ盛りなのが、このドラマである。

 今日、いろいろな方法で見逃したものを観ることができる。
 おすすめする。
 

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