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ご近所さん家の愛犬が旅立った日

去年の11月中旬のおはなし。実家のすぐ近くに住むおばあちゃんは一人暮らしで、一匹のわんちゃんを飼っていた。おそらく雑種犬だったのかな。17才という年齢もあって活発ではなく、いつも落ち着いているわんちゃんだった。

おばあちゃんの60才の還暦祝いの時、息子さんが連れてきてくれたそう。息子さんは遠くで生活しているため、おばあちゃんの旦那さんが亡くなってからはわんちゃんと、二人三脚で暮らしてきた。目は少しずつ見えなくなっていたみたいだけれど、つい数ヶ月前まではわずかな距離のお散歩を毎日楽しんでいた。とてもゆっくり、ゆっくりと、一歩一歩を噛みしめながら歩いている姿が印象的だった。

おばあちゃんの家の前を通ると、よくわんちゃんに話しかけている声が家の中から聞こえてきた。我が家も少し前から豆柴を飼い始めてみて分かったことなのだけど犬は、人間が話すかなりの言葉を理解しているような気がする。言葉をかけると、まるで理解したかのように反応する。意思の疎通ができている感覚が不思議とする。嬉しかったり、寂しかったり、怒ったり、、、こんなにも感情表現が豊かなのだとは知らなかった。

だからこそ、犬をわが子同然に思う気持ちもとてもよく分かった。愛しすぎるぐらい、愛しいのだ。私の父はよく(冗談か本気か分からないが)「実の子供より犬の方が可愛い」と言う。でもそれは、素直で屈託のないキラキラした表情を見せてくれる愛犬だからこそ、あり得る話なのだ。

そして、おばあちゃんのわんちゃんは少しずつ衰弱していった。体が痛いのか、夜中に少し鳴き声がした。辛そうな鳴き声。心配になった。

ある日、おばあちゃんに「動物病院に連れて行きたいので連れて行って欲しい」と頼まれたので、すぐに車を出した。おばあちゃんには日頃から何か困ったことがあれば声かけてねと伝えていた。車の中でもわんちゃんは、痛そうな声をあげていて体が硬直して手足を動かせる状態ではなかった。獣医さんに痛み止めをもらったが、どうやらあと数日が山場だと言われた。

それから2日ほど経った夕方、家の前で私はほうきではき掃除をしていた。そしたらおばあちゃんが私の名前を呼んで、うつむきながら歩いてきた。

「たった今息を引きとった、、」と言い終える前におばあちゃんは泣き出した。私もその瞬間に、涙が溢れた。自然とおばあちゃんの手を取って、小さい肩に手を回し体を支えていた。それから一緒におばあちゃんちへ行き、安らかに眠っている姿を見守った。最後まで痛みと戦ったわんちゃんはとても安らかな表情に変わっていた。辛かったのによく頑張ったね。

次の日、ペットを火葬してくれるお寺まで私と、私の父も付き添った。おばあちゃんは当たり前だが気が動転していた。そのまま毛布にくるんで連れて行くつもりだったらしかったが、箱と小さな花束を渡して今できる限りの華やかさでわんちゃんを連れて行った。

お寺に引き渡して、最後のあいさつを済ませた。おばあちゃんは、17年という長くてもあっという間だった歳月を振り返っていた。「癒しをたくさんありがとう。」と涙ながらにかけた最後の言葉。わんちゃんは桃色のお花に囲まれて安らかに眠っていた。そして、お空へ旅立った。

おばあちゃんから、たくさん感謝の言葉をもらった。「もし一人だったら乗り越えられなかったかもしれない。今回のことは忘れられない。本当にありがとう。」
私は大したことはできなかったけれど、それが心からの言葉だと分かった。

と、同時に誰かの役に立つということは、ただ寄り添うだけでいいんだということに気付いた。何か大きなことをしたり、何かを与えることが役に立つことだと思い込んでいたが、それだけではなかった。その人の「心」に寄り添う。それで十分役立てるのだ。寄り添う心さえあれば、例え自分が持たざる人でも人の役に立つことができる。

自分の身の周りで起きる出来事、出会う人々、いつでも寄り添うことから始めようと思う。そんなことを、近所のおばあちゃんとわんちゃんが教えてくれた。


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