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マイクロ十牛図でプチ入鄽垂手をやっていきます【おじさん小学生の譫言vol.18】

たとえば哲学は役に立つか?という問いに「役に立たちゃしないけど、俺は助かった」と答える。

最終問題、ただし持ち込み可

今日の社会のように、ある程度の発展が実現した後の世界に残されているものは、それまでに現れた人々の粋を集めてなお未解決の問題群である。

しかし、個人単位で見ると、必ずしもそうした未解決の問題だけに取り組めば良いというわけでもない。1000年前に答えが出ていることに悩んでいる人も大勢いる。

個人が苦しみを超える一つの手段として、人類の総体では解決済みの問題群の蓄積にアクセスするには、「総体としての蓄積にアクセスする」という技術と余剰を、まず総体としての蓄積抜きで獲得する必要がある。それは最初期においては、何かよく分かんないんだけど、今できるし、やっておくという形を取る。

その操作を促すものが、たとえば教育と呼ばれたり、教養と呼ばれたりしているのだろう。

人類全員が炭坑に潜っていく必要はない

全ての人に等しく教育の機会を与えるのは素晴らしいことだが、それが全ての人に等しく効果をもたらすわけではない。生得的なものであれ、環境的なものであれ、たまたま適性をもつことができた人間が、それぞれ、太い腕で穴を掘り進んでいくなり、七面倒なことを部屋で延々と考え続けるなりすればいい。

とはいえ、全ての人が等しく適性に合った役割を担うわけでもないし、個人の適性というか特性が、須くいつでも時代の要求するものに合致するはずもない。

適性があるとか、才能があると言えば聞こえはいいが、要は役割を担ってしまった(呪われた)人が、他の人の分まで穴に潜って掘り進む。深さも範囲も方向も人それぞれだが、いくら上位互換がいようとも、今この場所にいて、目の前の人たちに穴ぐらから持ち帰ったものを配ることができる人間は一人しかいない。

悟りを得ることのゴールは意外にも

十牛図というのは、中国の禅僧が作った「悟りに至るまでの10のステップ」である。

悟りを追い求める人を牧人、追い求めている悟りを牛に見立てて解説しているこの図は、最終的に悟り(牛)をゲットしてハッピーエンドではない。

そこからさらに先があって、「牛ってなんだっけ?」とか「牛も俺も、なんだっけ???」とか、やや危うい過程を経て、最後に行き着くところは「ワイの悟り、シェアしまっせ」なのだった。

10.入鄽垂手 - 悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある。

「にってんすいしゅ」と読みます

実は一切のものが存在しなかったとしても、それでも今このようにはある。この世の何もかもが意味をもたなかったとしても、それでも今このように私たちはある。

そのうえで、適性だか努力だか、運の良さだか知らんが何らかの理由で悟りを超えた境地に到達した人は、その知恵を、まだ牛を追っている人たちにシェアしていくことがゴールだ。という話なのだと解釈している。

身の丈にあった十牛図をやろう

とはいえ、本当の意味での悟りを開くことができる人は希少だし、そもそも目指す人も少ない。

だから俺らにできることは、悟りというほどではない知見やセオリー、つまりマイクロ牛(マイクロ悟り)をシェアすることくらいだと思う。

メタ認知を持て飢えを見せるな悪口を言わないように工夫しよう少しだけ前向きでいようでも見せびらかすようなポジティブはアカン

そういう小さなことが自分を救ってくれたことを自覚できたこと自体は、本当にたまたまなのだから、その「救われ」を自分だけで独占しておきたくないし、しかし同時に別に誰も「救われ」なくていい。

それにどれも1000年前には答えが出ていることなのだった。だからといって既出の問題に苦しんでいる人たちが、愚かで怠惰であるということにもならない。彼らは人生を闘うことで忙しく、とても知見やセオリーどころではない。

それを何とかできたらとは思いつつ、余計なことをして余計なことばかり考えて過ごしてきた人間にできることは、結局余計なことをすることだけだ。勝手に置いていくので、勝手に拾っていってほしいと思う。

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