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きわめて正確な判断は、決定的ではないが無視できない程度の「予言の自己実現」を計算に入れることができない【おじさん小学生の譫言vol.13】

先日のこのnoteと、けっこう反対のことを言うよ。

正しい理解と判断における厳密さ

自分の状況と、持っている資源、あるいは能力について、どれだけ正確に把握できるのかということは重要である。それを見誤って大変な目に遭う人がいる。

ご多分に漏れず自分もそうで、特に自分の能力に対する過信で、周りにひどい迷惑をかけることになってしまったことが何度もある。

しかしそれで萎縮して、自分には何もできないと決めつけて何もしないのもまた、貴重な資源の無駄遣いという観点から、よろしくない。

結局、現在は「自分には何もできないが、それはそれとしてやれることをやる」という二律背反的なところに落ち着いているが、これが最適解ではないことは明らかである。少なくとも「正確な理解」からはかけ離れている。

世界から独立して評価することは不可能

では例えば、本当に厳密に、自分の状況・資源・能力に対して正しい理解と判断ができたとしたらどうだろう?それは最も理想的な振る舞いであるように見えて、なかなかそうもいかないのではないか?という予感がある。

というのも、ある時点における正しい理解というものをしてしまうということ自体が、その将来に生じる変化を考慮に入れないからだ。

まだ起きていないことに対する予想を含めること(私たちが自然にやっていることではあるけれど)は必ずしも正しさに寄与するものではない。間違いなく当たる予想は予想ではない。そのような不確定性を含んだ理解を「正しさ」の中に含めることは難しい。

現時点で自分の持っているものを、本当に(とまでいかなくてもある一定以上の水準において)精緻に理解すること自体は、まだいいのかもしれない。問題はその理解に基づいて、意思決定をしてしまうことが、正しい理解に基づいているはずなのに、結果として正しくない、望ましくない未来を生み出してしまうことがある。

それはなぜか?心当たりがあるとすれば、正しい理解と判断は、世界から相互干渉が不可能ほど独立した行為ではないことだ。

そもそも「理解する」「判断する」という「行為」自体が、世界から相互干渉が不可能なほど独立することが可能なのか?

「正しい理解と判断」も「行為」である以上、世界に影響を与える。つまりその後の未来に現実的な影響を与え、「正しい理解と判断」は、その時点の世界では正確なものであったとしても、現実に与える影響が、正確に本来の目的を達成しえない。つまり望ましくない未来を引き寄せるということがありえる。

冷徹であることが最も正しくても、最適ではないことがある

だから、何が言いたいのかというと、少し間違った理解と判断のほうが、その目的に適うということがあるということだ。

うつ状態というのは物事が正しく見え過ぎてしまう状態であるという表現がある。わたしたちと、それを取り巻く世界について、本当に正しい姿を捉えようとすると、その中に組み込まれていることが耐え難く苦痛で恐怖であるということに気づくだろう。

すると、その苦痛と恐怖によって、世界の前にまず自分の未来が現実的にどのような影響を受けるかは、推して知るべしである。では逆に、不正確でも楽観的な理解と判断をすることが、自分の未来にどのような影響を与えるだろうか?

その影響を過大評価しすぎてしまうと、前に書いたようなポジティブ一辺倒の人になってしまう可能性があるので避けたいが、その一方で、つまり不正確であることに自覚的な理解をした上で、判断と行動によって世界と相互干渉することが、目的としての正しさに合致することがあるのだ。ということを書いておきたかった。

その間違った理解と判断による予言の自己実現性は、物事を決定するほど強力ではないが、しかし無視して冷徹に判断するには惜しいだけの効力を持っている。

だから前向きであるということは、そのように控えめなものであるくらいがちょうどいいのではないか。

どうしようもないが、それはそれとして、やらないよりはよい。それはいつでも最適解ではないが、最適であることが正確であることを必ずしも含んでいるとは限らない。ということを考えている。

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