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見えない表層、透明なテクスチャ【おじさん小学生の譫言vol.3】

前の職場で、どんなにこちらの主張を説明しても「いやお前は本当はこう思っている!」と決めつけて一切譲らない上司とケンカして以来、自分や他人が「本当はどう思っているか」なんてどうでもいいと思うようになってしまった。

そのかわり、自分や他人がどのように見えるのかは、少し考えるように心掛けていたところ、どうやらそういうことがなかなか不得手な人も、世の中にはいるようである。

主張の内容とは別の「メッセージ」

人が何事かを主張するとき、それを誰が、いつ、どこで、どのように言った?ということが、内容とは独立した意味を持つ。それを「メタメッセージ」と呼ぶ。

一般的には、メタメッセージは発言者の本心を表すこともあるとされているが、冒頭に書いた通り俺は本当の本心なんてどうでもいいと思っているので、それよりもメタメッセージによって、その人の本心がどのように解釈されうるか?という解釈可能性を考えてしまう。

すると、バズりすぎて教科書に載った吉田さんのツイートが思い返される。

狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。

徒然草第85段

どのような本心を持ったところで、たとえば良かれと思って人を口汚く嘲る人がいたなら、その人は事実「人を口汚く嘲る人」である。もう少し噛み砕いて、さらにできる限り控えめに言うならば、「本心から人を口汚く嘲る人である(またはこれからそうなる)解釈可能性を帯びた人」である。

メタメッセージがわからないというメタメッセージ

そうした仕組みを理解したうえで、それでも自分は他人にどう思われようと構わねえ!という人なら、そういう人生をプレイしているんだなと思えるし、なんなら俺より健康なので、各自やっていってください。

心配なのは、「どうして色々うまくいかないんだろう?」と悩み苦しみながら、自分のメタメッセージがどういう有様になっているのかに目を向けることを知らない人である。

たとえば「どんな内容も、誰が言うかで正誤が決まる」という、メタメッセージを過度に重視するフレーズを、頼まれもせずに自分から言い放つ人は、そのような発言を自分がするということが、どのようなメタメッセージになるのか?という観点を欠いている(=欠いている人物であるというメタメッセージを発している)ことになってしまう。

メタまみれになる人もいる

逆にメタメッセージが見えすぎて存在しない悪意に傷つけられたり、極小の解釈可能性に怯え続ける人もいる。

この場合は、むしろもっとメタメッセージを、正確に読めるようになるしかなさそうなのだけど、誰でも何事かを最初から上手にできるとは限らない。

なのでそういうタイプの人は(あるいは周りにそういうタイプがいたら)、本人の不安が強いというのは単なる結果であって、その症状は「メタメッセージを読んでしまう力がある」という、むしろ長所によるものであると捉えてもいいのではなかろうか。

その長所を伸ばすことができれば、ふと何かに対して何事かを言いたくなったとき、その発言の内容とは別に、自分の「発言」という行為が、周りにどのようなメタメッセージを発するのか。その透明な表層が、見えるようになる…のかもしれない。


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