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負の連鎖を断ち切る、消極的ポトラッチしぐさ【おじさん小学生の譫言vol.6】

古くはお互いの気前の良さを競う「ポトラッチ」、最近では「錯覚資産」などとも呼ばれている種類の振る舞いは、何かを「獲りに行く」のではなくて、何かを「失うのを防ぐ」ために使うくらいが、ちょうど良いのではないか?という話。



ひょんなことから、急に時間ができてしまったので、昔読んだ本を読み直している。すると、当時は読み飛ばしていた内容に、いまなら活かせそうな知見があったりする。

虚勢を張るメリットとは?

「贈与論」を書いたマルセル・モースが、未開の部族の調査資料を通じて発見したものに「ポトラッチ(競覇的贈与)」というものがある。

これはたとえば、対立する部族の酋長同士が、お互いの気前の良さを競うバトルとして現れる文化である。

いくつかの事例によると、ポトラッチにおいては、お返しを貰うのを望んでいると思われないために、贈与や返礼をせずに、ひたすらに物を破壊するのである。彼らはギンダラ(キャンドル・フィッシュ)の油や鯨油の樽をそっくり燃やしたり、家屋や数千枚の毛布を焼き払い、競争相手を「まかす」ために高価な銅器具を壊したり、水中に投げ込んだりする。このようにして自分や家族の社会的地位を高める。

マルセル・モース「贈与論」より

「俺たちはハチャメチャに裕福だから、こ〜んな無駄なこともできるんだぜ?」ということをして、実際に高い地位を獲得しようと競っていたらしい。その結果、対立する部族とともに物的困窮に陥るケースもあったという(やりすぎ注意!)

つまり、このポトラッチを「実際よりも強く、大きく、豊かに見せる。虚勢を張ることで、相手を打ち負かし、実際に得をする」というテクニックとみなすこともできるのだ。

現代で身の丈にあったポトラッチは?

しかし現代社会において、自分の財産を投げ捨てるように消費してアピールすることに、どれだけ現実的な利益があるだろうか?あるいは、実力以上に自分を大きく見せる虚勢が、いったいどれくらい見抜かれないで済むものだろうか?

シャンパンタワーやフォロワー数の水増しなど、そういった虚勢の張り方自体は現代化されていても、それを効果的に扱える人は、結局すでに大きな力をもった人たちに限られている(と思う)。

それならば、虚勢を張るにしても、自分をより大きく見せるのではなくて、自分の飢えを見せびらかさない程度にするのはどうだろうか?

公正世界仮説は、ほんのちょっとだけ正しい

この世界において、「全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる」と信じる誤謬(ごびゅう)を「公正世界仮説」という。

この行き過ぎた考え方が元になって、たまたま不幸な人を「自業自得だ」と責めるのは本当に良くないが、同時に、この世界にはある程度の因果応報があるのも事実である。

その結果、多くの人たちが「あの人が飢えているのは、本人になにか原因があるのではないか?」と疑う。その状況で、何かヘマをやると「やっぱり!」と思われてしまう。

すると社会における人とのつながりや、自分の状況を良い方向へ変えるチャンスが減ってしまう。おおまかに言うと「徳」が減ってしまう。

これを防ぐために、何かを欲しがり過ぎたり、求め過ぎないことによって、飢えを見せないとは言わなくても、見せびらかしすぎないことは、有効であるように思われる。

たとえば、人に何かしてあげた後に「お返し、よろしく頼むね!」「この前してあげたこと、忘れてないよね?」などとしつこく迫ると、これは、せっかくの良いことも台無しになってしまう。

同様に、自分が何かしたことに対するリアクションを執拗に迫ったり特定の人に気に入られるためにしつこくアプローチし続けることは、これはまさしく「飢え」の表れになってしまう。

とにかくそういう人を見るにつけ「もったいない!!!」「もっと上手にやって!!!」と思う。それをさりげなく、しつこくなく、軽やかにしてみせるだけで、みんなが幸せになるから…

得しようとするのではなく、徳を落とさない

大盤振る舞いしてみせるのも、さりげなく良いことをして見返りを求めないのも、「虚勢を張る」という意味では同じかもしれない。

しかし、前者が「得を獲ろう」とするのに対して、後者は「徳を落とさない」ようにしている。この控えめな虚勢、消極的なポトラッチを知ることが、もしかしたら、誰かが陥っている負の連鎖を断ち切る一つのきっかけになったらいいなと思う。



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