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【書評】上田誠二『「混血児」の戦後史』(青弓社、二〇一八)

 上田誠二『「混血児」の戦後史』(青弓社、二〇一八)は、著者が地域研究の過程で資料に接した澤田美喜の乳児院、小学校、中学校を視座として、主に占領期の米国軍人と日本人との間に出生した混血児をめぐる教育のありようを歴史的に叙述した一書です。澤田は三菱財閥の創業者岩崎弥太郎の孫娘で、夫は外交官の澤田廉三、一九四八年二月に乳児院エリザベスサンダーホームを創設したのを嚆矢に、生涯、混血児の教育に熱意を傾けた人物です。

第一章「占領・復興期の混血児誕生」では、強姦された女性の引揚、RAA(特殊慰安施設協会)とその閉鎖、進駐軍の現地妻(オンリー)といった社会事象から日本に混血児という周縁化された子供たちが出現する戦後期の様相が叙述されます。戦中に定められた初の断種法・国民優生法にかわって一九四八年に制定された優生保護法では、産めよ殖せよの政策の終わりを受け、経済的事由などでの中絶規制が緩和されました。議員立法として優生保護法を提出した社会党議員・太田典礼は、医師としてヤミ堕胎の横行やパンパンの心ならぬ妊娠に危機感を抱いていたのですが、優生保護法で出生を防止すべきであるとされた不良な子孫のなかには混血児もまた含まれており、ここには当時医師たちさえも持っていた差別的な視線が内在しています。澤田がエリザベスサンダーホームを設立するのは一九四八年、聖ステパノ学園小学校を設立するのは一九五三年ですが、これは、混血児の生い立ちが出産を決意したオンリーの子に限られてくる過渡期にあたります。この時期文部省は混血児を一般児童と平等に共学で行う方針を示していましたが、澤田は児童の個性や学習進度に応じて興味関心や自発性を引き出しながら人間教育を施すダルトン・プラン方式をとり、別学によって、技能教育に接続する芸術教育をおこなう小学校を目指しました。その教育の特色や意義を考察するのが本章のクライマックスです。

第二章「日本「独立」後の公立小学校の混血児教育」では日米安保との対となる形でサンフランシスコ平和条約が発効した一九五二年以後、公立小学校で混血児の教育がいかなる形で行われていたかが主題となります。当該の時期は敗戦後の混血児が学齢に達する直前の時期でありながら、政府は混血児の総数を把握できずにいましたが、実際に現場教師の奮闘がはじまってからは『混血児指導記録』が一九五四年から四年間刊行されており、その実状を窺い知ることができます。しかしながら、資料の精読の結果見えてくるのは、公立校においては実際のところ、形式的な平等主義の結果、個々の教師の尽力にたよることしかできず、その限界のさきには母子の自助努力が求められることとなったという現実でした。本章の末尾において著者は、日本国憲法や教育基本法が既に成立していながらも公立小学校では実現されなかった弱者との連帯という人権意識が、著者のフィールドである町田市のとある場所で萌芽していた可能性を示唆します。

第三章「高度経済成長期前半の混血児教育」で話題となる一九五〇年代後半から一九六〇年代前半という時代の教育界は、一九五三年に経済界の要望で発足した中央教育審議会の影響で、経済成長に適した競争主義や能力主義を基本原理とすることとなっていました。本章では公立校である大磯小学校と澤田のステパノ小・中学校の取り組みを、能力主義と道徳という二面から顧みます。著者は、大磯小学校の事例をある程度評価しつつも、技能教育(芸術的技能・実業的技能の両面)の推進という、一見すると子供の自己決定権に反する澤田のステパノ学園の実践に注目し、社会弱者の教育にとり、競争原理に基づいた能力主義の平等性は見せかけのものであり、弱い個人の連帯性を構築するという強い協働のありかたを学ぶべきであろう、と結論づけています。自己責任論と表裏一体となった新自由主義が福祉の領域にまで浸食しつつある昨今、おそらく本書のなかでも特に重要となる指摘ではないでしょうか。

第四章「高度経済成長期後半・低成長期の混血児と日本人の子との出会い」で扱われる一九七〇年代前後、混血児はタレントやスポーツ選手といった能力主義的な才能イメージと、森村誠一『人間の証明』に象徴される汚辱イメージとの間にありましたが、当事者たちはそれでも日本社会に包摂されたいと希求していました。スポーツや芸能といった限られた就職先ではなく、企業社会に包摂されるためには、高校へ進学するというルートがあり、ステパノ学園もまた、学力社会へと接近してゆきます。さらに同中学校では一九六〇年から小学校六年生クラスと合同で実習をするような「特別クラス」(Sクラス)を設置し、学習進度の遅れた生徒やトラブルを起こす生徒、知的障害を持つ生徒を別個で教育しはじめました。しかしながら、こうした能力主義的分断が学園内に見られはじめるのと平行して、一九七〇年代に入ると、ベトナム戦争によって日本に残された黒人系混血児が入所するほか、一九七五年ごろからは児童相談所経由で知的障害を持っていたり親が蒸発したりした日本人の子供を、さらに一九七六年には中国残留孤児を受け入れるようになり、学園内では新たな社会問題によって周縁化された子供たちが関係を結び合うようになってゆきます。著者はこの時期の学園において実現されつつあった多様性理解の風景を、一九七〇年から町内の教育関係者や老人会を招待し、町民の出入りを自由化した運動会に見て取り、いまだ偏見を持つ町民との間の社会関係を変革する場となっていったと位置づけます。

第五章「低成長時代の周縁化された子どもたちの連帯」はいよいよ現実の時間へと近づいてくる一九八〇年代以降の事象です。一九八〇年、澤田の死没に際して発された町民の追悼の声のなかには混血児教育という彼女の仕事の得がたさを称揚するものも多くみられました。同学園では彼女の死を受け、疎外感を持った子供たちが外部社会と出会う場としてバザーフェスティバル(現ステパノ祭り)を開催しますが、これは恒例行事となってやがては町民でにぎわい、まさに周縁化された子供たちへの偏見が緩和してゆく場となっていきました。また前出の通り、混血児以外の児童・生徒も増加し、一九九三年には学校教育法施行規制改正によって通級制度がはじまったことに対応して外部からの通学児童・生徒の公募もはじまります。学園はさまざまな困難を抱える子供たちが出会い、ケアしあう場所となっているばかりでなく、現在では健常者も同校の教育方針に関心を寄せて入学するようになり、健常児も要支援児も同じ教室で学ぶというインクルーシブ教育が実現されているのです。

「戦後」ときくと、当然「もはや戦後ではない」という経済白書の一文が流行した一九五六年あたりを一区切りとする見方が頭に浮かび、刊行された平成末期までを記述対象とする本書の体裁には多少面くらうのですが、通読すると、本書の主題が「周縁化する/される子どもたち」をめぐる教育史にあることがわかり、占領期に混血児問題に目を向けた澤田の経験の蓄積が、現在のインクルーシブ教育の理想的な形に連結していったことの価値が目の当たりになるのではないでしょうか。

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