今枝由郎・海老原志穂編訳『ダライ・ラマ六世恋愛詩集』(2023・岩波文庫)の翻訳がひどすぎる

今枝由郎・海老原志穂編訳『ダライ・ラマ六世恋愛詩集』(2023・岩波文庫)を読んだのですが、あまりに翻訳が杜撰なのでメモしておきます。

ダライ・ラマ六世ツァンヤン・ギャンツォ(1683-1706)は「チベット仏教界の最高権威であるダライ・ラマの化身として認定されながら、成人するやいなや還俗し、ラサの街に浮名を流し、廃位され、二十年余りの短い生涯を閉じた」(同書解説・今枝由郎「ダライ・ラマ六世の生涯とその特異性」)人物です。

彼が残したとされる膨大な恋愛詩(実際には、その多くは民衆が彼に仮託した作と考えられる)がチベットには残り、今も愛されているといいます。原詩は6音節4行の一種の定型詩で、かつてその一部(于道泉編の「ラサ街版」と呼ばれるもの)を今枝由郎が『ダライ・ラマ六世恋愛彷徨詩集』(2007、トランスビュー)として訳していますが、このたび海老原志穂が訳者に加わり、増補・一部改訳を行って成立したのが本書『ダライ・ラマ六世恋愛詩集』(2023、岩波文庫)です。

原詩が伝統的な定型詩であることを踏まえ、本書の訳詩は七五調・四行・文語体で訳出されています。例えば第1首だと〈はるかモンより鸚鵡来て/季節は巡り春めきぬ/幼馴染の愛し娘に/目見えて心安らげり〉といった按配です。この第1首は、さすが1首目だけあって佳什で、七五調の文語体にも格調が感じられます(この詩に限らず本書では「愛し娘」という語が頻出します。「娘」を「こ/ご」と読ませる当て字の古くささにはいささか辟易するところもあります)。

心に残った詩はたくさんあります。たとえば第4首〈西の深山の頂に/白き煙の立ち登り/我に思いを寄せる娘が/サンを焚き上げ慕うかな〉は、「サン」という現地の名詞をそのまま活かしたところや、「慕うかな」という、用言に接続する「かな」の響きなどに、詩歌を読む喜びを喚起させられますし、第29首〈歯白く笑みをほころばす/居並ぶ娘を見渡せば/一つの婀娜なる流し目が/我が顔(かんばせ)に注がれし〉のような詩は、ダライ・ラマ六世という人物のキャラクターの魅力が存分に出ていて面白く、表現に関しても、「し」という連体形終止が利いていると思います。

また第60首〈ラサの街には人いきれ/チョンギェーの人麗しき/幼馴染の愛し娘は/チョンギェー谷の育ちなり〉も好きだった詩で、異邦の地名と「人いきれ」という語との響き合いがあるのではないでしょうか。全体として破調が多いのが気になりますが、掉尾を飾る第100首〈真白き鶴よ心あらば/我に翼を貸せよかし/遠くに飛ぶにあらずして/理塘(リタン)を巡りて帰りこん〉のように、思いの深さの表れとして鑑賞しうる場合もあります。

とはいえ、一冊を通して読めば、翻訳のつたなさが目に余ると言わざるを得ません。「翻訳がひどい」という場合、原典に対する理解の不足であるケースと、翻訳の結果として出力される表現の不出来というケースがあるわけですが、本書は後者で、特に、定型に収めて、かつ文語で表現するというコンセプトが設定されているがために、それを達成できずに破綻をきたしていると思われます。

たとえば、次に挙げる第14首を見てください。

逢い去り往きし愛し娘は
肌に色香のたちこめり
しばし手にせしトルコ石
失くしたごとき思いなり

第14首

第2行に「たちこめり」とあります。これは下二段活用の動詞「たちこむ」に助動詞「り」が接続したものと考えられますが、助動詞「り」は四段活用またはサ行変格活用の動詞にしか接続しません。同様の誤りは第85首の3・4行目〈心やさしき娘子は/夢に巡りて現われり〉にも見られます。

これ以外にも、文法的な瑕疵が本書には散見されます。

心の内を伝えども
娘の心は打ちとけず

第35首3・4行目

「伝えども」は動詞「伝う」の已然形に接続助詞「ども」が接続した詩句ですが、動詞「伝う」には四段活用の自動詞と下二段活用の他動詞の2種類があり、当該箇所では「心の内を(娘に)伝う」の意ですから他動詞です。とすれば、ここでは本来、下二段活用の已然形「伝うれども」としなければならないところです。「伝えども」では四段活用の自動詞になってしまいます。

鳴けども応う声はなし
崖に草木も生えおらず

第16首3・4行目

「応う」は下二段活用の動詞で、ここでは「声」という体言が下接していますから、連体形「応うる」が正しいかと思います。下二段活用の活用形の誤りは第43首3・4行目〈逢いて間もなき愛し娘に/心うち明くことなかれ〉の「うち明くこと」にも見られます。

チョンギェー谷の柳園の
小鳥のソナム・ペルゾムよ
我ら遠くに離れまじ
宿世の縁に他ならず

第50首

助動詞「まじ」は、ラ変動詞以外の動詞に対しては終止形に接続しますから、「離れまじ」ではなく「離るまじ」とすべき箇所です。現代日本語の助動詞「まい」との混同かと思われます。

愛し娘想う我が心
正しき御法に向かいなば
人身受けし今生で
成仏まさにまがいなし

第21首

第2行の「なば」は助動詞「ぬ」の未然形に接続助詞「ば」が接続したもので、仮定の意を表わします。このような場合、呼応が起こり、文末には推量の助動詞が来ます。ところがこの詩の文末は「まがいなし」で終止しており、推量の助動詞が欠けています。もちろん「まがいなからん」とすれば破調になってしまうわけであり、このジレンマを解消する困難は想像できるのですが、そうはいっても、未然形+「ば」ときて「まがいなし」でおわるというのは、文語としてはかなりしっくりこないです。

ちなみに訳者はこのルールを知らないわけではなく、たとえば第49首〈高き白檀その幹の/涼しき木陰に集いなば/二人の心の結び目は/結ばざれども結ばれん〉と、正用になっています。また、未然形+「ば」は、呼応する語が命令形である場合には推量の助動詞を取らない、という法則があるのですが(命令形に助動詞は原則つかないので当然ではあります)、これに関しても第26首に〈千の花びらもつ葵/仏の供物に献じなば/若き蜜蜂この我を/ともにお堂に連れよかし〉という正用の例があります。

結局、先の第21首の場合は、七五調に収めるということのほうに障壁があったのでしょう。本書に破調が多いということは先に触れましたが、いわゆる字余りだけでなく、プロパーの日本語詩歌ではほぼありえない、

永久の伴侶(とも)たる我が君は
はにかみのゆえなるや
御髪に挿したるトルコ石
言の葉告ぐること知らず

第34首

――の第2行「はにかみのゆえなるや」のごとき字足らずも見受けられます。

古典的なチベット語の定型詩を七五調の文語体で訳出するというコンセプトは素晴しいと考えます。まして、文語文という滋味豊かな文体を試みる文学関係者が、現代においては、伝統的な短詩型の作者を除けばほぼ存在しないという現状にあって、詩的言語に対する想いと矜恃が感じられます。しかしながら実際の成果物である本書を見るかぎり、それは成功していないと言わざるを得ません。

現代を生きる訳者らの訳文に誤りが出てしまうのは致し方ないと思います。むしろ腹立たしいのは編集サイドの校閲の杜撰さです。岩波書店は古代から近現代にいたるさまざまな文語文の作品をいまなお世に送り届けている出版社ですが、社内ないしは委託の校閲者に、まともな文語文のリテラシーを持っている方はいらっしゃらないのでしょうか。いないんだったら私がやりますよ、X(旧Twitter)のDMお待ちしていますネ。

それは冗談として、よしんばいないのだとしても、本書のような、現代において文語文を試みるという特殊なコンセプトを持つ書物を公刊するにあたって、文法・表現の面でチェックできる専門家に事前に読んでもらうということを、どうしてしなかったのでしょうか。岩波文庫の黄帯のタイトルの校訂をしている著者はたくさんいるでしょう。

岩波文庫のTwitter(当時)アカウントで本書発売の告知を見かけ、こんなに面白そうな本があるのか、さすがは岩波書店だとワクワクして手にとっただけに、残念でなりません。


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