小説:Limit ~無限の彼方に~ 第一章 殺人は柚子の香り 第23話
~~あらすじ 第22話までの内容を忘れた、ココから読み始める方へ~~
~~本編~~
レイカは「取引」が成立したのを確信し、苦しむ耀馬に一瞥をくれると、もう飽きて捨てたおもちゃのように振り返ることもせずに、階段脇にある廊下を足早に進み、突きあたりにあるウォークインクローゼットにある観音開きのドアに手をかけた。ギイと音を立てて開いた扉の向こうに現れたのは、冷たく青白い肌の色をした陶器製のような人形だった。それは、外の照明に照らされて、ダビデ像を思わせる荘厳さと優美さを醸し出していた。
巨大な人形、その見覚えのある顔に、時の壁の向こうから様子を見ていた藍雛は、なぜ二十六歳のレイカが、この世界で四歳児の姿になったのか、答えの一部を理解したものの、残った謎も多く、当惑した。同じ世界に同じ人物は二人存在できないという『時のルール』は絶対のはず、でもあの像のような女はレイカの死体。だがなぜ消滅しなかった? 藍雛は最早ブラスターの出番はないと、それに安全装置をかけて背中に仕舞った。
幼児のレイカは愛おしそうに、黒いシャツに青のベストを纏った人形に手を触れると、その幼児の体温を奪いかねない冷たさに満足の笑みを浮かべた。
冷凍睡眠は実験通り成功している。
小さなリュックから赤い液体の入った半自動式の注射器を取り出した。その針先を人形の太ももに躊躇することなく突き立てる。針が皮下組織に入っただけで赤い液体はみるみる注射器のシリンジから体内へと吸い込まれるように流れ、大腿の穿刺部位がぷっくりと膨らんだ。だが、それも数秒のことだった。穿刺部位の液体は周囲の組織へと吸収され、腫れはすぐに引いた。代わりに太ももを中心に、人形の冷たさは消え失せ、熱を持った細胞の活動がみるみる全身に広がった。まるで電流のように。硬く凍った筋肉は、柔軟性を取り戻し、血液は少しずつ流通を再開し、全身にブドウ糖と酸素を送る役割を思い出したように機能し始め、血液をシャットアウトしていた肝臓、腎臓、膵臓、脾臓などの臓器にも、血液がゆったりと流れ、長い休みの後、業務を再開したようだった。
レイカが注射したのは、凍った細胞を傷つけることなく元の温度に戻す『凍液溶解剤』だった。その赤く染色された液体――誤投与を防ぐために赤い染料を混入させている――は、心臓に達すると、心臓の拍動が再開され、人形の身体が胸のあたりを中心にドクンと揺れた。人形の顔も陶器の冷たさが消え失せ、赤いみずみずしさを取り戻し、成人女性の凍死した遺体のように見えた立ち姿は、やがて深い眠りに誘われている美女の肉体らしい質感を帯びるようになった。
幼児のレイカは、成人の肉体に生命が脈打つまでの時間を無駄にはしなかった。自分の幼い頭部にリュックから取り出した一本のコードの先端を慣れた手つきで貼りつけると、もう一本のコードを成人のレイカの頭部に貼った。二本のコードは小さなレイカが手のひらに乗せた機械に繋がっている。二本のコードを貼り終えると、レイカは目をつぶって機械のボタンを素早く押した。バチッと小さな音が二人の頭部から生じると、四歳のレイカは、目を閉じたまま床に崩れ落ち、代わりに人形のような姿をしていた成人のレイカの目がゆっくりと開いた。
自分の意識と体の動きが連動しているのを確かめるように、膝を軽く曲げ、半身になって左腕を後ろに引き、右腕をガードとして前に出すサウスポーのファイティングポーズをとると、そこから右のジャブを数発、空中に浮かんでいる仮想の敵に向かって放った。そのジャブのスピードに満足すると、首を二三度横に倒し、時空移動能力のない人間には見えない真上にある『時の壁』に向かってジャンプした。
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