小説:Limit ~無限の彼方に~ 第一章 殺人は柚子の香り 第22話
~~あらすじ 第21話までの内容を忘れた、ココから読み始める方へ~~
~~本編~~
バーン!
再び銃声が響き、弾がレイカの顔をかすめて壁に穴を開けた。彼女はひるまず階段を一気に駆け下りると、耳のあたりから血を流している耀馬に目をやった。とどめを刺すわけにはいかない、またその価値もない。彼女はそう考えると、トイレから出て、砲撃にあったように穴の開いた玄関と倒れている幼児を見てわなわなと震えている花梨を前に、涙を咄嗟に浮かべた。
「おばちゃん、変な男の人が耀馬君を連れて来て、ピストルで撃ってきたの。耀馬君が階段から落ちたの。怖いよう」
「ねえ、洋希は? 洋ちゃんは? ……ねえ!」
花梨はレイカの肩を強く揺さぶり、叫ぶように言った。
「上でお風呂に入ったままだと思う。男の人はどこかに行っちゃったの」
それを聞くと、耀馬の容態も気になったが、花梨は「洋希!」と金切り声をあげながら、階段を駆け上っていった。
階上からの「洋ちゃん、どうしたの、その傷は!」という狂わんばかりの声を耳にしたレイカは、藍雛の銃弾をかわすために、耀馬を盾代わりにして目的の場所まで引き摺って行こうかと考え、血だらけの幼児を見つめたが、すぐにその考えを打ち消した。レイカは自分の体重が現在十五から十八キロくらいというのを忘れていたのだ。この二歳児にしては大きな彼の肉体も、同等の重さがあるだろう。自重と同じ重さの人間を連れて行くのは困難を伴う。盾どころか足手まといだ。耀馬は危険を本能的に察知したのか、階段を落ちながらも筋肉を膨らませてダメージを軽減していた。その痕跡が首から鎖骨付近につらなる胸鎖乳突筋の太い筋に見えていた。その筋肉のお陰で、指先は微かに動き瞼が軽く痙攣するなど、生命が脈打っている徴候はあったが、意識レベルは低下し、戦闘力は完全に失われていた。
彼を自発的に歩かせるのは無理か、自分が蹴り落したことを悔やみつつそう判断したレイカだったが、目的地まで一人で行かねばならない理由がもうひとつ重なった。耀馬の母メアリーが、ぽっかりと空いた玄関の空隙から姿を見せたのだ。先ほど息子がドアを破壊する様子を遠目に見ていた母親は、信じられない思いで、歩きにくいスカートの裾を手で持ち上げて走って追いかけてきたのだった。
息を切らせながらメアリーは、蓬沢家の玄関の空洞をくぐった。自分の息子がドアを破壊するなんて信じられない、きっとガスか何か爆発したのよ、彼女は今まで自分が生きていく上で指針となっていた『常識』というものにすがろうとしていた。たとえ、爆発が起きたのに耀馬が外に飛ばされず家の中に入っていったという矛盾にうっすらと気づいても目をつぶり、二歳児がドアを壊して後ろに投げ捨てたという、網膜が受け取った情報を無視しようと努めた。
メアリーは、玄関から続く階段のすぐ脇に見覚えのある顔を見た。確か、洋ちゃんのお友だちの……、考えている暇はなかった。頭の中の混沌を、表に出さず、子どもが泣きださないように優しさで声を包んで語りかけた。
「ねえ、お嬢ちゃんはこの家の子かな? 金色の髪をした男の子を見なかった? ちょうどあなたくらいの背丈の……」
女の子は震える声で、
「耀馬君のママ? あのね、耀馬君は階段から落ちたの」
と玄関マットの上を指差した。
これまで自分の高い視点で、ガスの臭いを確認しながら物事を見ていた彼女は、顔を下へと向けた。
「どうしてこんなことに? 耀馬! 耀馬!」
メアリーは、息子の身体を揺さぶりたい衝動に駆られたが、頭の付近についた血を見て思い止まった。代わりに、太腿や胸をさすったり、軽く叩きながら呼びかけると、うっすらと彼が目を開けたので、彼女は冷静さを取り戻した。
「救急車を呼ばないと、あ、スマホ……」
メアリーはここでスマホを自宅に置いてきたことを思い出した。家に引き返そうか、そもそもこの家の主はどこに行ったのだろう。そこでようやく二階で女性のすすり泣くような声に気づいたメアリーは、息子をその場に置いていくことを躊躇いながらも、蓬沢家で何が起きたのか、真相を知り救急車を呼んでもらおうと、階段を上ることに決めた。
少し後ろを振り返るメアリーに、レイカは「耀馬ちゃんを見ているから心配しないで」と両手をぎゅっと組み合わせるような仕草をしてみせた。少しの間なら、目を離してもいいだろうと、メアリーは花梨のいるはずの場所へ、足をそろりそろりと伸ばした。
何が起きたのか、事件の臭いを感じ取ったメアリーは、階段についた耀馬の血の感触を足裏で感じ取る余裕もなかった。
二人の成人女性が二階に上がるのを見届けたレイカは、自分に向けてくる銃口に向かって、はっきりとした声で告げた。
「今、そのブラスターをぶっ放したら、上の二人が混乱して、耀馬の救出が遅れるわよ。彼、よくて脳震盪、下手すりゃ硬膜外血腫が生じているかもよ。救急車早く呼ばせたけりゃ、そんな物騒なものしまっておきなさい」
藍雛は、その言葉を聞くと、再び迷いが生じて動けなくなった。それに、今レイカを始末すれば、あの四歳児のレイカと時の回廊を追跡していたレイカとの関係が永久にわからなくなるかもしれない。どこかにいる成人の彼女が、四歳児の姿に変化したのか、それともどこかで四歳児を操っているのかさえ不明だった。もし後者だとすれば、藍雛は無垢な幼女を殺害したという汚名と罪悪感を背負って生きなければならない。そこまで考えが及ぶと、洋希と耀馬の生命には別条ないだろうという憶測と相まって、藍雛からはレイカを狙撃する気力はもはや失われてしまった。
代わりに、もうすぐ時の回廊――藍雛と同じステージ――に戻ってくるだろうレイカがどのようにして四歳児から成人と変わるのかを見届けることに、神経を注ぎ込もうと決めた。
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