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知識で更新する自己アイデンティティ

 昨年の暮れ、物理の高校の参考書を買った。毎日に三ページずつ読んで、問題を解くことにしている。毎日Mキロのボールや箱をノートに書きながら、計算式を考え、頭から湯気を出して格闘する日々。何かを習慣化することは小説執筆ですっかり身についているので、続くだろうと思っている。いつものルーティンにほんの十五分だけつけ加えた新しい習慣。まだ当たり前になっていないので、胸が高鳴る。

 無理して入った中高一貫校では落ちこぼれた。成績は百三十人中百十番前後が定位置だった。私より下位の生徒は次々と留年するか退学していった。それでも私は、学校になじめず何も勉強しなかった。特に物理は苦手で高校一年の時には単位を落としている。

 高二に上がってから、理科は選択制になったので、理系志望の私は、生物と化学を選択することで、物理から逃れられた。もっとも、この二教科も苦手だったが、単位はかろうじて取れるだけましだった。

 当然のように大学に落ち、予備校生となった。予備校での授業はわかりやすく、私はどの科目も驚異的に成績を伸ばした。生物も化学も、高校時代はただの暗記科目だと思っていたが、暗記の背景にある理論を教わると、知的好奇心が刺激され、もっと知りたい、もっと問題が解けるようになりたいと貪欲に知識を求め、理解ができない箇所は、授業後も担当科目の講師に納得できるまで教わった。理解できる喜び、これが私を動かしていたと思う。

 理科は生物と化学を選択し続けて、希望の大学に合格した。しかし、物理は基本的な考え方さえも理解できていないままだった。大学の教養課程では物理は必須だったが、公式や前年度の定期試験の答えを意味もわからず丸暗記して、何とか単位を貰っていた。

 

 社会人になった後、読書会で一緒だったN君と知り合いになった。彼は、読書を通じて知識量を増やしたい、自己啓発をしたいと考えるタイプの人間で、私は彼と読書会以外でも二人で会って、本の話やちょっとした哲学のような対話をしていた。しかし、彼の話は時折私に違和感をおぼえさせた。

 彼と通話アプリで本について話をしていた時のことだった。彼は自分が読んだ小説の話をしていた。それは、胎児の間に生まれたいかどうかを、子ども自身が選択できるというストーリーだった。あらすじを述べた後、彼は興奮気味に言った。

「この先、妊娠初期に胎児が自分で運命を選択できる時代が来るんですよ」

 そのストーリーは面白そうだが、彼のその言葉を聞いて、即、そんなことにはならないだろうと伝えた。そこで意見の食い違いが生じて、私は苛立ってしまった。他人は異なる意見を持つのが当たり前ということはわかっているのに、彼の話し方はなぜか、素直に受け止めるのが難しかった。

「根拠を言ってくれ」

 私は、大学時代、S教授がよく学生に言っていた言葉を口に出したくなった。その時、やっと違和感の正体が掴めた。

 ファンタジー小説は好きだ。私も小説でよく書くジャンルだ。人間が猫に転生したり、ある日百貨店が迷宮に変わっていたりする世界は、プロットを作っているだけでもわくわくする。しかし、それが実現するとは思っていないし、実現するにはいくつもの科学的障壁を乗り越えなければならない。実現可能性を考えるには、物語をフィクションとして楽しむ姿勢とは全く異なる見方をしなければならない。

 N君の話ぶりを聞いていて、彼には生物学の素養がないのだと気づいた。生物学を高校で学んでいれば、カエルの受精卵は二分割、四分割と分裂し、もう少し進めば桑実胚、もっと細かく分裂していくにつれ、外胚葉から神経管が分化してくると知っている。人間を含む哺乳類もある程度、発生の過程は共通しているので、その神経管の一部が膨らんで脳になるのであろう。意識が生じるには、まず脳が形成されなければならない。そこから背景的感情や覚醒状態の積み重ねがあって、意識が芽生える下地となる。意識が生じるだけでもそれだけのプロセスが必要なのだ。ましてや、自分が言語を一言ずつ学び、それを他者に伝えるようになるにはどれだけの時間がかかることか。その発生の知識を持っていて、そこから類推する練習をしているだけでも、胎児の間にテレパシーで通信するということはありえないことがわかる。

 物語を楽しむだけなら、どんなに突飛な話でも大歓迎だが、実現可能性について話すときには、科学的根拠に立脚して語って欲しい、そう思った。私は、根拠のない話を真実であるかのように語られるのを非常に嫌う人間だということに気づいた。

「もしこんな世界だったらどうする?」という議論の始め方と「将来、こうなるんだけど、どうする?」という議論の始め方では、似ているようで全く異なる心構えを必要とされるのだ

 

 

 脳科学者であるS教授の授業を一年間受講した。テレビにも出演するようなキャラクターの濃い彼は、学生に厳しい態度で臨み、「知識のない事は恥だ」とよく挑発し、学生と論争になっていた。もっとも、自分には甘く、それが、授業の放棄やセクハラ問題を引き起こしていたのは残念だったが。彼は、問題を出して学生に答えさせる時に必ず「根拠を言ってくれ」と口にしていた。根拠とは文献でもいいし、権威ある人の言葉でもよい。根拠の正しさは、後で吟味すれば良いのだから、まずは根拠を述べるということを要求した。これは私に、発言に責任を持つことと、勘だけで物事を判断しないという癖を身につけさせてくれた。それ以来、日常生活でも仕事でも

「こうしなければならない根拠は?」

 と考えるようになっていた。すると、間違いを犯したときに、行動の源になった根拠に立ち戻れば修正できるのだ。

 根拠を作るためには知識が必要だ。S教授が「知識のない事は恥だ」とまで言うのは乱暴だが、知識が世界を広げ、身を助け、生を充実させ、創造性を育む、という意味で大切なものであることには同感だ。

 職場でホワイトボードについた油性ペンの汚れが落ちないと水拭きをしている秘書さんに、そっと消毒用のアルコールをしみ込ませたティッシュを渡す。化学の知識からの類推してとった行動である。徳川家康の敗戦から、失敗の可能性が高くても時にはチャレンジしなければならないことがある事を知る。こういったちょっとした場面でも、いつも何らかの現象や考察の対象が現れる度に、自分の知識を動員して、目の前の事象と知識を比べて、よりよく生きようとしている。

 しかし、物理に関する知識は皆無なので、日常で、歩く、物が落ちる、音を聞くといった現象に、何も考えず流されて生きている。そして、気づかぬうちに根拠なく荒唐無稽な話をしてしまっているかもしれない。私も決して、N君を揶揄できるような立場ではないのだ。

 高校時代に置き去りにした物理を何とかしなければと思っていた。まず手始めに、物理の雑学本を読んでみた。しかし、それらは面白いが、やはり自分で式を立てないと「へえ、知らなかった」で終わって、何も頭には残らない。これでは何も変わらない。楽して知識が身につくことはないのだ。そこで、高校物理をやり直すことにした。高校の参考書に手を出したのは、そんな動機だった。

 昔だったら、公式を丸暗記で済ませようとしていただろう。しかし、等速円運動の公式も、解説を頼りに自分の手を動かして納得いくまで計算してみる。これを続けて行けば、日常にも、創作にも、仕事にも物理の学びを応用できるようになる日が来るかもしれない。いつか、電車に乗っているだけで慣性の法則を理解し、電車の進行方向と逆向きに働く力を計算したり、ジェットコースターの宙返りを完成させるにはスタートはどこに置くべきかを理解できたりするようになるかもしれない。そんな自分を想像するだけで、わくわくする。そういった知識は自分の中に取り込まれ、アイデンティティの更新に繋がるのだと思う。

 しかし、更新のためだけに、自分を磨くためだけに学んでいるわけではない。この年になって、強制されずに何かを学ぶという体験自体が新鮮で楽しいのだ。例えば、水平な道を歩いていて、摩擦の事を考える。空想で道の真ん中に重さMgの荷物を置いてみる。摩擦係数かける垂直抗力だったなと計算式を浮かべる。続いて、その道を頭の中で三角の滑り台に変えて荷物を落とそうとしてみる、早く家に帰り参考書を開きたくなる。少しでも、理解できる場所が増え、考えるための判断材料が整っていく過程そのものも幸せだと言える。

 

 世の中にはまだまだ自分の知らないことがある。S教授は過激だったが、それは全て彼一流の教えだと肯定的にとらえて、知を学ぶことを楽しんでいければと思う。

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