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だからやっぱり椎名林檎が好きーー『椎名林檎論 乱調の音楽』を読んで

人と会うとかならず椎名林檎の話をしている気がする。
「伊勢丹」の話が出れば「突き刺す十二月の」と言ってしまうし、もはや椎名林檎の歌詞だけで会話ができるんじゃないかと思う。
すべての思い出話の中に、椎名林檎の音楽が流れている。
そして、椎名林檎や東京事変、林檎提供のともさかりえや柴崎コウの曲を聴きながら帰る。そんな三十二歳の日々。

ここ最近「椎名林檎が好き」と言いづらい空気をひりひり感じるなか、気になっていた新刊・北村匡平『椎名林檎論 乱調の音楽』(文藝春秋) を読んだ。

椎名林檎が好き、その理由をちゃんと言えなかった

「椎名林檎」というアーティストは、ファン以外にはとくに、「奇抜さ」とか「色気」というフィルターを通して見られていることが多い気がする。
近年はそれに加えて「政治・社会」の色もあるだろうか。
一方で椎名林檎愛好家が椎名林檎を語るとき、それは彼女の作品に人間性を結びつけて崇拝し、そこに自分自身も重ねるような、ちょっと陶酔的なものになりがちだ。
これはほかでもない私自身、心当たりがたくさんあって、ライターを始めた大学生の頃からたびたび椎名林檎については書いてきたものの、どうしても感情移入しすぎてしまう。あと、椎名林檎のムードに引っ張られて、少しかっこつけてしまったりする。椎名林檎にはなれないし、なる必要はないのに、「共感」する自分に酔いたい気持ちを拭えないのかもしれない。

結局私は、小学生の頃からファンでありながら、どうしてこんなにも椎名林檎が好きなのか、納得いく自己分析さえできていなかったのだ。

「なんで椎名林檎が好きなの?」
何度となく訊かれてきた。
そのたびに、最近は「女の人生のすべてって感じがするから?」とか答えながら、なんか違うなと思っていた。
共感するから?それとも、憧れるから?
「色気」もないし、「天才」でもないし、人生経験もぜんぜん違う、福岡育ちということ以外に似ているところなんてなさそうな自分が?
……そういうことじゃなかった。椎名林檎というアーティストにこんなにも魅せられる本質は、もっと深いところにあった。
そこに触れる手がかりとなってくれたのが、この『椎名林檎論』だった。

この本は、歌詞だけでなく、曲、声、演奏、映像などを驚異的な細かさとアカデミックな方法論によって分析し、時代背景の中に位置づけたり、他のジャンルや人物と比較したりしながら、椎名林檎というアーティストがなぜこんなにも特別なのか、解き明かしている。
大学生の頃に読んで卒論のテーマを決める参考にしたかったな、と思うほど、丁寧に研究の手順を踏んで書かれた論だ。

『本能』は、異性愛ソングじゃなくてもいい

その中で、目次を見た時点で気になっていた「クィアな林檎」という項を読んでいたとき、電流が走ったような感じがした。

「第4章 音楽を魅せる」という章の中のこの部分は、椎名林檎のセンセーショナルなイメージを世間一般に印象づけた『本能』のMVの分析から始まる。
赤い口紅をひき、ミニ丈のナース服を着た椎名林檎がガラスを叩き割る映像。
私にとって、この曲とヴィジュアルに抱いてきたイメージは今まで大きく二つだった。

・セクシー、大人の女、見ちゃいけないものを見ている感じ。
・真っ白で無機質で、どこか近未来的。

でも、これが椎名林檎でなかったら、こういうテイストのものに、私はとくに何の思い入れも感じないのだ。
椎名林檎が医療に関するモチーフが好きなのは、子どもの頃に入退院を繰り返してきて病院に馴染みがあったから、というのをどこかで読んだ記憶があるのだが、しいて言うなら私も身体が弱かったからこういうものに惹かれるのだろうか、とも思っていた。

『椎名林檎論』は、この『本能』MV・歌詞を「クィア・リーディング」という手法を使って捉え直している。
クィア・リーディングとは、「異性愛規範に収まらない性愛のあり方としてテクストを読み直す試み」のことだという。
つまり、このMVを「男女の恋愛」という枠組みから解き放って分析しているのだ。

真っ白な壁に取り囲まれ、白衣を着用した椎名林檎は、身体の境界線が曖昧化し、背景に溶け込んでいる。そのせいで唇に塗られた口紅の過剰な〈赤〉がいっそう画面から浮かび上がり、艶っぽい真っ赤な唇の動きだけが鮮烈な印象を残す。この〈赤〉のイメージは、感情の昂揚であるとともに、歌詞との関連で考えると、社会的なものを身に着ける前のプリミティヴな欲望を表してもいるだろう。だから欲望が向かう先の相手以外、背後で演奏するベーシストも手術室に最後に登場するスタッフも、完全に後景に退いている。そして彼女の欲動が向かう相手というのが、女性の肉体なのである。

北村匡平『椎名林檎論』p.122

筆者の北村匡平は、椎名林檎が女性と絡み合うシーンを例に挙げ、歌詞も「相手を明確に『男性』と位置づける言葉はない」と読み解く。

思春期の頃の私にとって、『本能』は自分には遠い世界の恋愛や性を歌っている「過激」な曲である一方で、なぜか他のアーティストが日常を歌うような流行りの恋愛ソングよりも胸に響く、不思議な曲だった。
その『本能』を、男女の性愛を歌った曲ではなくもっと広く開かれたものとして受け取るこの分析は、私にとって自己分析にも結びつくような、青天の霹靂だったのだった。

もちろん、クィアな世界観が椎名林檎のすべてではないし、作品の中には明らかに「男と女の恋愛」を描いているものもある。

そのことも認めた上で、『椎名林檎論』は『二時間だけのバカンス』『罪と罰』の歌詞とMVからも、椎名林檎が異性愛の枠組みを超えた表現を繰り広げていることを指摘している。

椎名林檎が事あるごとに千変万化を繰り返し、〈変身〉を印象づけてきたことは周知の事実である。だが、ジェンダーの観点から捉え直した彼女の音楽と映像の強い相互作用のパフォーマンスはもっと複雑だった。

北村匡平『椎名林檎論』p.128

そして筆者は、田中純によるデヴィット・ボウイ論を引いた後、こう結論づけている。

楽曲のコンセプトを最優先し、そのイメージに寄り添うように可変的に別の自分を演じ続けてきた椎名林檎ほど可塑的(プラスティック)なアーティストは日本にいないだろう。その中でも、とりわけ『本能』や『罪と罰』に見られるのは、ジェンダーの秩序を逸脱し 、攪乱するような、椎名林檎のクィアなトリックスター的パフォーマンスなのである。

北村匡平『椎名林檎論』p.128

そうだ。私は椎名林檎の、従来のイメージであった「女性的」とか「セクシー」な部分に親近感を覚えていたわけではなかった。
ときに過剰なまでの演出によって、作品の中でジェンダーの秩序をかき乱し、ナンセンスなものにしてしまうところが好きだったのだ。
いまになって、そう気付かされた。

日本社会の中で、恋愛したり仕事したり日々の生活を送りながら、結婚・出産・育児などを女性の身体で経験する。それは椎名林檎にも、私にも共通している点だ。
でも私は、「“女”として見られている」という自意識がとても薄いことに、あるときからじわじわと気が付いていた。環境や育ち方、持って生まれた性質によって「女として見られている」という感覚が幼い頃から染みついている女の子は多いようだが、私にはなぜかそれが抜け落ちているみたいだった。中高の女子校時代を経て共学の大学に入って以降、周りの女子と比べて自分の中での違和感が顕著なものになり、今に至る。
それは性別が未分化な、「少女性」とでも言えるものなのかな、と自分を納得させてきた。
だからこそ、椎名林檎が「セクシー」とか「良い女」とかの象徴だとしたら、そこに自分がハマるのはおかしいと思っていた。
椎名林檎自身は、過去の発言などを見るに、幼い頃から「女として見られている」ことを自覚した上で、そこに反発を抱いてきたほうの女性だと思う。私とは真逆に思える。

けれど、どちらも行き着くところは、「性別を受け入れながらも、女としての見られ方など意識しないところで人と深く接したいという欲求」という点で同じなのかもしれない、と気が付いた。

演技をしているんだ

そもそも、女性の肉体的な特徴を強調し美しくみせるヴィジュアルが男性目線を想定したものである、ということも、思い込みだったのだ。
自分だってそうではないか。
フリルやレースやリボンやフレアスカートが好き、身体が美しく見えるシルエットの服が好き、発色の良いアイシャドウや跳ね上げたアイライン、艶やかなリップが好き。
それは現実世界のさまざまな物語の中で、持ち合わせた身体を使って自分を「演じる」、ということなのかもしれない。

『椎名林檎論』第12章では、「林檎博の演劇性」という項の前後で、椎名林檎のライブ・パフォーマンスには「演劇性」と「パロディ」の要素が特徴であることが指摘されている。
そして、それは「キャンプ(camp)」という概念とも捉えられる、と筆者は述べる。

「キャンプ」というのはスーザン・ソンタグが「不自然さへの愛:策略と誇張」と定義した言葉だ。
メトロポリタン美術館が毎年開催している展覧会の、2019年のテーマにもなっていた概念で、そのオープニングイベント・メットガラでは、変幻自在なピンクのドレスに身を包んだレディ・ガガが注目を浴びていたのも記憶に新しい。
そういえば、その展覧会で展示されていたブランドのひとつが、同時期の椎名林檎の衣装として愛用していたGUCCIだ。
2018年の「(生)林檎博’18 - 不惑の余裕 -」でGUCCI(私物)を衣装に取り入れた椎名林檎は、アレッサンドロ・ミケーレ率いるGUCCIが同年発表したクルーズコレクションが今回の演目の起点だった、と語っている(公式ライブレポートより)。
それは、GUCCIのロゴを無断で盗用していた仕立て屋・ダッパー・ダンと、GUCCIがコラボレーションしたコレクション。
ミケーレが自分のブランドをパクっていたヒップホップファッションへ、逆に「オマージュ」として正式にコラボレーションを実現したということを受け、椎名林檎は「お返事申し上げるつもりで」とライブを作り上げた。
それはもしかしたら、世の中にひとり歩きし続けてきた「椎名林檎」という虚構のイメージを、自分自身で演じることで「本物」を際立たせるという、まさに「余裕」の表明だったのかもしれない。
ファッションについては『椎名林檎論』ではあまり多くは言及されていないけれど、それも椎名林檎の演劇性を支える重要な構成要素のひとつだろう。

椎名林檎のコンセプチュアルなライブには、観客も「今日はこういう設定で参加すればいいのか」という考えをもってのぞむという構造があり、そこには思想よりも美学が先行するーーそう指摘した後、「林檎博‘14」を例に挙げ、筆者はこうまとめている。

歌姫が戦地に慰問に来ている体で、椎名林檎の舞台演出にファンは進んで参加するのだ。この危ういまでに脱政治化された空間ーー。この「演じること」のメタ性が林檎劇場の特徴なのである。

北村匡平『椎名林檎論』p.309

椎名林檎に政治性や偏った思想を見出すような誤解の多くも、こういった「林檎劇場」のメタ構造が、ファン以外とは共有しづらいことによって生じてきたと思う。

そういえば最近、椎名林檎のアルバムの特典として発表されたグッズが「ヘルプマークに酷似している」として、ネット上でかなり大きめな問題になった。「椎名林檎が好き」と言いづらいムードだと私が感じているのはそのせいだ。
このグッズに関しては、撤回するべきだなと私も思ったのだけども、それはこのグッズが「パロディ」の様式美の域を逸脱していて、関係のない(「林檎劇場」の一員ではない)他人に実害を出してしまう可能性があるからだ。
このグッズひとつで、積み重ねてきた「林檎劇場」のルールまで一緒くたに批判されてしまうのは、勿体ないことだと思う。

両極のものをコラージュする美しさ

話を戻すと、『椎名林檎論』ではこの美学の分析を挟んだ上で、ネーミングが神道的などと批判を受けたりもした2014年のアルバム『日出処』について論じていく。
『日出処』のジャケットデザインは、「太陽/月」、「赤/青」、「日本/アメリカ」、「男/女」など「対極にあるもの」同士がコラージュされたものになっている。
そのことを指摘した上で、この傾向を、「極度に断裂した社会の中で、その両極に向かうばらばらのものを一つの虚構世界の中に縫合しようとするマニエリスム的欲望」と分析している。

これは特にアルバム「日出処」について論じられた部分だけれど、アートワークや歌詞などにみられるそのような美学は、表面的なインパクトを超えて、椎名林檎の楽曲のメッセージ性とも共鳴していると私は思う。
違うもの同士が、違和感を抱えたまま共存するこの世界で、ふいに美しい瞬間が立ちのぼることってあるだろう。
東京事変「御祭騒ぎ」のように。

生を受けたこの世代の歯車と
今夜こそやっと歯が噛み合いそうです

東京事変「御祭騒ぎ」歌詞(作詞:椎名林檎)

そして私は生きている!
今日現在を歩いているんだ
何も無い私だって
融け合っているのさ

東京事変「御祭騒ぎ」歌詞(作詞:椎名林檎)

「このために生きている」と思えるような、心地良く甘く美しい瞬間。
そしてそこに至るまでの、違和感だらけの日常を真面目に乗り切る生活。
その鮮やかなコントラストによって、人生は輝きだす。
椎名林檎の作品は、言葉、音、声、映像、さまざまな演出を通して、それを教えてくれる。

だから、今日も私のイヤフォンからは椎名林檎が流れている。
この先もまた、年齢もキャリアもさらに重ねた椎名林檎からみえる世界が音楽として届くのなら、私は不確かな未来も楽しく生きていけるような気がするのだ。


(大石蘭)



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