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雲の山に登りたい

 千葉県は四十七都道府県の中で唯一、標高五〇〇メートル以上の地点を持たない。小学生の頃に社会科の先生が話してくれたその統計情報が、以来ずっと胸の奥につっかえて残っていた。それは本来、千葉という土地がいかに平地の広く発展に適した土地か、ということを讃える文脈で語られていたものだった。しかしその日を境に電車の車窓から覗く高い山のない見晴らしの良い風景に、俺はどこかコンプレックスを抱くようになった。

 その気持ちは事あるごとに形を確かにしていった。高校生の頃、岐阜の高山を舞台にしたアニメ「氷菓」が流行った。自分と同じ高校生の主人公たちが、連峰を背景に望む町を舞台に、日常の些細な謎を解き明かしていくという物語だった。流石にその頃には、ライトノベルのような日常を現実世界に求めるような幼い欲求は理性で抑え込めるようにはなっていた。だが、その白く染まる山稜という、神々しくも実在する圧倒的な山体の描写に、自分の世界との決定的な隔絶を見出すことを我慢できるほど冷めてもいなかった。

 社会人になり神戸に出張したときに慕情はピークに至った。三宮の駅から出て、スマホの地図アプリから目を離して世界を見上げると、そこにはもう山が迫っていた。決して鄙びてなどいない、むしろ関西有数の巨大さを誇るその都市は、背後にそびえる山嶺に今にも押しつぶされそうに見えた。しかしそれでも街は確かにその幾何学的な輪郭線を持って自然を切り取っている。人と自然の営為がせめぎ合うその最前線に俺は圧倒される他なく、それを感じずに過ごしてきたこれまでの人生が途端に空虚で土台のない浮ついたものに思えてきたのだった。取引先の人間の言う「どうです、いい街でしょう」という自慢の言葉に、単なるおべっかではなく初めて真正面からの敗北を認めるを得なかったのがその時の経験であった。そして「涼宮ハルヒの憂鬱」の舞台のモデルが神戸であることを思い出し、険しい自然という背景設定は、人間の物語を生むために仄めかし程度でも必須なのかもしれないと思ったのだった。

 その日、俺は東京の夏空の下を歩いていた。ここ数年気温はボジョレヌーボーの売り文句の如く毎年のように過去最高を更新し続けており、その売り文句どころかその売り文句を面白がる使い古された言説に感じるのと同じくらい、暑さに対していい加減辟易としていた。最近俺は寛容と非寛容の関係について考えていて、それを哲学的に考察した言説を探し、参照すべき二つの候補に行き当たっていた。一つはカール・ポパーの唱えるパラドックスだ。ポパーの名は、以前ウィトゲンシュタインについて調べていたときに目にしたことがあった。もっともその思想の内容について触れた訳でなく、なんでかはわからないがウィトゲンシュタインとポパーはある時言い争いになって、ついにはウィトゲンシュタインが火かき棒を振り回しておどかした、というような突飛なエピソードの紹介に触れた程度の知識だった。一方で彼の著作に「開かれた社会とその敵」というタイトルがあると知り、即座にこれがあのSF小説や試論の題名の元ネタかと覚ったりした。ポパーは寛容のパラドックスというものを提唱した。寛容が非寛容に対しても寛容であるべきだとしたら、非寛容によって寛容自体が崩壊するリスクを負うことになる。しかし非寛容に対し非寛容となれば、寛容な社会は寛容でなくなる。最終的には例え部分的に非寛容にならざるを得なくとも、寛容を守るためには非寛容でなくてはならないという結論に至る。

 一方で、非寛容に対しても寛容たれと説いた思想も見つかった。最近のネット上の非寛容者たちの言いがかりめいた主張ではなく、70年前の日本の仏文学者、渡辺一夫によって書かれた「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか?」というエッセイだ。それはどうやら人間性への信任に基づいて、非寛容に対しても寛容を貫けば、いつか非寛容もわかってくれるはず、という考えを示すものらしい。この人には間接的に触れていた。というのは、大江健三郎はかつて渡辺の本を読んで感銘を受け東京大学の仏文科に行き、彼の元で仏文学を学んだというのだ。その後も事あるごとに渡辺の本の解説を書いたりしていて、思慕の具合が伺える。上記のエッセイが収録された本の一つである岩波文庫の「狂気について」にも、大江による解説文が寄せられているらしい。ちょうど周囲と同じ凡百な感性を持っていた俺は、大江健三郎の訃報を知って初めてその著作をいくつかつまんだり、三島由紀夫との若干の思想的対立をゴシップ的な好奇心で調べていた頃だったので、興味が湧いた。読んでみたい。しかし問題は、岩波文庫は全く電子書籍化もされていないし、「狂気について」は2018年に重版されたのが最後、オンラインショップには新品の一冊も並んでおらず、状態の悪い中古ばかりがネットに並んでいるのみという事だった。仕方なく、POS管理からあぶれた新品が三省堂や書泉の棚に紛れていないかまず探し、それも無理なら少しでも状態の良い中古を古書店で探そう、という魂胆で神保町を目指すことにしたのだった。
 
 首都高の横の細道を東に向かって歩く。左右に並ぶつまらない形の雑居ビル群は真上から差す日差しによって窓枠のような細さの影しか落とさず、俺は為す術なく幅広い波長の電磁波に貫かれていた。赤外線がじんわりと体を熱し、紫外線がこんがりと皮膚を焼くその中で、俺は救いを求めて頭を上げた。そして息を呑んだ。

 まっすぐと伸びる道とビルの並びが消失点を結ぶその先、空が広がるべきその空間に、俺は巨大な山を見た。その山は天を貫くように高く、周囲を拒むように険しく、世界を押しつぶすように広かった。巨大な山麓には影が蠢いている。その白く染まった山頂を見て、俺は即座にそれが富士山よりも高く、エベレストすらも上回りうるような場所にあることを思い出した。そしてそれが東京の東、つまり房総半島の方向に見えたことに、妙な必然性や意義を見出した。雲の群れを海に例える例は聞いたことがあったが、しかしこの都市の隙間から望む巨大な積乱雲の姿は、街の背景に望む山そのものであった。

 何も東京の摩天楼の背景に、望遠圧縮で無理やり引き伸ばした富士山を写し込む必要などなかったのだ。他の街を羨む必要もなかった。どんな光学的な効果よりも圧倒的に巨大な視覚的実体として、その雲の山は聳え立っていた。Twitterから青い鳥が飛び去った現在ですら、自分の身近なところに求めていたものがあるという寓話的経験がまだ残っているということ、そのことに俺は希望を覚えるほかなかった。そしてこの季節にしか現れない、東京と千葉から望めるこの世界一巨大な山脈に、新たな夏の意義を見出した。

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