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福沢諭吉VS明治第二世代 大日本帝国と史論家山路愛山の時代3     

明治第二世代の思想家たちの役割

 明治思想といえばやはり福沢諭吉(天保五~明治三四 一八三五~一九〇一)である。

 彼の出身地大分県の中津市を旅したのが平成一九年(二〇〇七)八月であった。この地は福沢以外にもう一人教育者の廣池千九郎を輩出している。有名なのは福沢だが、筆者は同年五月に廣池の設立したモラロジー研究所の理事長をされる廣池幹堂氏とお会いする機会に恵まれ、お土産として廣池の伝記を頂戴し、以来、このときより福沢よりも廣池のほうに関心を持った。いや、正確にいうならば、廣池が福沢にたいしてどのような見方や発言をしているのか、そのことだけが気になった。というのは、『伝記 廣池千九郎』には、廣池と福沢諭吉との交流といった記述もなければ、福沢から影響を受けたといったような記述もほとんどなく、書かれていないことが妙に気になった 。得てして、思想史の世界では、研究対象の人物が書いて当然のことを「書いていない」ほうが、印象になって残ることもある。


麗澤大学モラロジー研究所の祖廣池千九郎

 大分空港に着くなり、レンタカーを借りて、中津城の辺りまで来たときである。福沢諭吉の大変力強い「独立自尊」という巨大な石碑が立っているのが見えた。筆者はそれを見て圧倒されていたのだが、その時に、静かにそして力強く仰られた土地の人の言葉が忘れられない。

「廣池先生は、この福沢先生の言葉に対して〈慈悲・寛大・自己反省〉が大事じゃと批判されたんじゃ。独立自尊では人は生きていかれんとな」

「廣池家は今でも栄えておるが、福沢先生直系のご一族は完全に消滅してしまった」  

「廣池博士は関東に赴かれた際に、同郷の福沢先生のもとにいかれた様子はないんじゃな。福沢先生を頼らんという気持ちがあったのじゃろう」

 ガイドの方の説明を受けて、やはりと思った。実はこのような批判は廣池の経歴からみて想定していた。まさに、一番知りたかった事実が、確認できた思いであった。天保五(一八三五)年の生まれである福沢と、慶応二(一八六六)年誕生の廣池は、年齢差からみたら親子の間からで、この世代間の差は明治創業の世代とその子供たちの第二世代の差異を理解する際に重要な手がかりなのである。

 例えば文久三年(一八六三)生まれの徳富蘇峰は福沢と自身の出身の同志社の創立者新島襄について

「すなはち物質的知識の教育は、福沢君によつて代表せられ、精神的道徳は新島君によつて代表せらる」

と述べて、我々の世代は、精神的道徳を打ち立てる課題があるとした。

富国強兵から殖産興業と邁進し、明治二七年(一八九四)の日清戦争、同三七年(一九〇四)の日露戦争で産業革命を終わらせた日本であったが、当然、産業を主体とする文明へと移行するに当っては、官製の模範工場の建設など物質的文明の受容が課題となる。それを福沢の世代が引き受けた。その弊害は、社会の個人主義的傾向として現れたと若い世代には受け止められた。実態は「個別化」というべきだったろう。

個人主義とはその人の信念的な価値観であるが、個別化とは社会全体が機械的にそのような傾向に進んでいくことを意味する。このような背景があって、蘇峰のいうような公共性を重んじる精神的道徳の時代となるのである。明治第二世代の思想家たちの多くが、こうした課題にぶち当たっていた間違いがない。

愛山は国家と個人の関係について次のような答えを出している。

「国家主義とか個人主義とか云へばその表面は誠に大差あるが如くなれども、それも議論の立やうによりては別段矛盾するものには非ず」

と両者は矛盾しない「主義」であると述べ

「抑も国家主義とは何ぞや。一国が世界の世界の間に立ちて独立自尊の品位を維持するの道に外ならざるべし。さればその大小こそ異なれ福沢先生が一個人に就きて教へたる独立自尊の説法を国家に応用したるのもののみ。その精神より言へば一身の独立自尊を主張するもの何ぞ一国の独立自尊を主張せざるを得んや。国民の中に人間の独立の貴重すべきこと、その体面の生命よりも重んずべきことを知るもの多くして始めて国家の長城をなすと謂つべきなり」

 個人主義が発揮される場は安定的な秩序が不可欠である。それをもたらすのは国家に他ならない。従って、国家主義と個人主義は不即不離の関係にあるという。個人がなければ 国家もなく、 国家もなければ 個人もない。両者が 両者の存在を保証しているのであり、相互依存の関係にある。

 例えば、
 
 「掻き寄せて結べば芝の庵なり解くれば元の野原なり かきよせて むすべば しばの いおりなりとくれば もとの のはら なりけり」(慈円)
 
 という大変有名な歌がある。これは日本人の〈空の思想〉の理解を示すとしてしばしば紹介される。木の枝もバラバラに存在していたら何も意味をなさないが、それを集めて紐で結んでみればなんと庵ができてしまう。しかしその紐を解いてしまったら、その庵はたちまち崩壊する。〈空〉とは相互依存関係のことだったのだ。モノが存在することに拘る西洋の存在論とは異なり、愛山の説く国家と個人の関係論は大乗仏教の匂いすら感じ取れる。

 続いて、愛山は個人主義と国家主義の本質について説いている。

個人主義と云へばとてひたすらに自分一身の利害をのみ詮議し他人の事は堂でもかまはぬと云ふ利己一偏の我慾を指すものに非ず。左様なる畜類に均しき愚かなる考えならば人間の持つべきはずはなし。それと同様にして国家主義と云へばとてその国家を組み立つる一人一人の人間が貧乏にては仕方なきことなれば一個人の利害はさらにかまはぬと云ふ訳には行かざるべし。しからば個人主義と国家主義との差違は如何と云ふに畢竟同じことを彼れ此れ二の端より見たるに外ならずして一は国家は一個人の為めに存在するものなりとし、他は一個人は国家の為に存在するものなりとするに過ぎず」

国家主義と個人主義が究極的に同質の概念であるとしながらも

「国家の職務より云へば国家は人民の為に出来たるものに相違なければ是非国家の権力にて人民が安寧を守り快楽を進めざるべからず。此時に方りては一人にても不幸薄命の民あれば国家は之れを救はざるべからず」(以上「国家主義と個人主義」『明治思想集Ⅱ』松本三之介編 昭和五二(一九七七)筑摩書房)

 と付け加えるのを忘れなかった。国家と個人は不即不離の関係というよりは、相互依存である。国家が民を愛するからこそ、個人は国家存亡の危機に際会すれば立ち上がる。

大正三(一九一四)年に夏目漱石はあの学習院で行った講演「私の個人主義」において

「何だか個人主義というとちょっと国家主義の反対で、それを打ち壊すように取られますが、そんな理屈の立たない漫然としたものではないのです」

「個人の幸福の基礎となるべき個人主義は個人の自由がその内容になっているのには相違ありませんが、各人の享有するその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計のように上がったり下がったりするのです。これは理論というよりもむしろ事実から出る理論といった方が好いかもしれません」

愛山同様、国家主義も個人主義も「事実」の問題として切り離せないと語っている。漱石によれば、

「自分の自我をあくまで尊重するような事をいいながら、他人の自我に至っては毫も認めていない」

人種が増えたという。国家主義者も個人主義者も両者を切り離して考えているという点で過ちがあるというわけだ。漱石は個人の自由は個性の発展において極めて必要で、個性の発展こそが個々の幸福に非常な関係をもたらすがゆえに自由を守るための「義務」と、他人の自由に配慮する「公平の眼」、「正義の観念」、自由を掣肘する側の権力者が持つべき「徳義」を強調した。

個人と国家の関係がうまく調整されなかったのは、明治政府そのものが、宮本常一(明治四〇~昭和五六 一九〇七~八一)が呼んだような「庶民」に与えた近代教育自身にも問題があった。

「学校教育は国家の要望する教養を国民にうえつけることであったが、それは庶民自身がその子に要求する教育とはちがっていたということにおいて大きなくいちがいがあり、しかも両者の意図が長く調整せられることがなかったために、学校における道徳教育が形式主義にながれ、村里のそれが旧弊として排撃せられつつ今日にいたったために、村人たちは苦しみつづけてきたのである。つまり明治以来の日本人の道徳教育が、日本人の日々の民衆生活の中から必然の結果として生まれでたものでなかったということにおいて、公と私のはなはだしく不調和な、道徳に表裏のある社会現象を生み出すにいたった」

宮本は、政府が「庶民」の守り続けてきた教育伝統(親のあとを継ぐための職業訓練など)に則らず、また耳を貸す余裕のない教育を展開したことが、公と私の不調和を生んだと批判しているのである。

昭和の時代に入ると愛山や漱石の述べた国家と個人の関係は、アメリカの排日移民法(一九二四)、世界的な大恐慌、イギリスを始めとする植民地帝国のブロック経済といった対外的な危機が迫り来るなかで、国家の比重が個人を圧倒した。昭和一五年(一九四〇)から始まった米国の対日経済封鎖を受けた昭和一六年(一九四一)八月一五日発行の文部省編纂『臣民の道』には

「国体をはなれて臣民の道はなく、天皇に絶対随順し奉ることをはなれて日本人の道はない」

と強調されている。臣民の皇室への愛は、自然発生的に湧き上がっていくべきものという認識が「強制」的な愛になったのである。

対して、戦後日本の憲法では国家と個人の関係を形の上では、第一三条に見られるように「公共の福祉」に反しない限り生命、「自由及び幸福追求の対する国民の権利」は保障されると説かれている。しかし、比重は明らかに個人主義に傾斜したのであって、それは九条の戦争放棄に明瞭に示されている。国家を守るという義務が明記されていない以上は、教育基本法で示されるように「個人の尊厳」のみが一人歩きし、国家主義に傾くことがあたかも個人主義に反するような錯覚を抱くに至った。この両者は不即不離のはずだが、両者の切り離しと対立を促したところに、戦後日本と戦前日本の断層が認められる。

ともあれ、近代日本の思想家がこの問題をいかに問うてきたかを振り返るのは、無駄ではなかろう。現在は、国家の個人の関係がますます見えにくくなっている。今の国家は、ただ国民から税金をむしり取り、コンピューター管理をし、生かすだけ。そのようにすら見える。そのような貧困な理解もしばしばみられるのである。だからこそ近代国家の原点である、明治を振り返りたいのである。

筆者の生活するベトナムでは小学校から、「国を愛するように」と普通に指導されており、日本との違いは顕著である。こうした話題になり、

日本では愛国心教育に対する根強い反対がある」と筆者がいうと、

それで日本は将来もし外敵が来たらどうやって守るのですか?

と心底不思議そうに聞かれて答えに窮したことがある。日清日露といった戦争を経て、独立を維持し続けた歴史に学び、もう一度考え直す必要があろう。



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