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「湯嶋天神の台」−おっちょこの被害を受ける三角関係–『江戸名所道戯尽』

課題をやってたらこんな時間…バイトからの大河ドラマからの…はきつめでした。
明日に今日分は書き上げます…!


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えらい!ちゃんと戻ってきました!


今日こそ広景。今回は『江戸名所道戯尽』の「湯嶋天神の台」です。

スクリーンショット 2022-06-13 11.12.16

◼️ファーストインプレッション

カオスな状況を一回言語化すると、

①ざるそばをデリバリーしていた男の人が犬に足を噛まれた。

②そのせいでひっくり返したざるそばの台を侍に被せてしまう。

③それを見て頭を抱えて笑う男の人。

男性それぞれが違う感情を持って動揺しているのがわかりますね。

湯島天神というと、以前広重の絵でも出てきました。その時は雪の景色で、神聖で静寂感ある風景として描かれていましたがここでは正反対。

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上の絵を参考にすると、鳥居の真横、紫の羽織を身につけている人が向いている方向、鳥居の真下の黄色の「広重」という文字のある場所あたりが今回の舞台ではないでしょうか。

奥の大きな池の配置からしてここあたりでしょう。

今回の鳥居の描かれ方はこれまた浮世絵風景画にありがちな配置。よく描かれる木々のような、画面の角をに沿うような曲線が演出されているのが特徴ですね。

今回は何あを見ていこうと思っておりますが、ハプニング集なんてありますかね。いや、デリバリー事情なんていいのでは!


◼️画面の角を縁取るモチーフ

先ほども言及した通り、画面の右上の角を縁取る曲線のモチーフは風景画によく用いられます。

参考にしている『ヘンな浮世絵』日野原健司さん著でも、まさに言及されておりました!

本書では水神の森を描いた広重の『名所江戸百景』の絵を取り上げられていました。

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確かに。主題はきっとこれじゃないんだろうけど、この画角であることでただの遠景のぼやけた全体像ではなくなります。

華やかであるけれど、控えめな印象。まるで写真の額縁のような、画像のフレームのような役割ですね。


そういえばここ真崎を描いた広重の絵には必ず右上フレームに花が配されています。それを彼の歴史の中や歌川歴代の趣向から探るのも面白そうだと思ったのを思い出しました。

広景は広重の門人であることを鑑みると、広重の好む構図を倣っていた可能性はかなりあると思われます。


◼️デリバリー事情

ざるそばを運んでいたら犬に足を踏まれるなんて現代ではまずない状況ですので、想像に難いですが今はデリバリーはバイクですからね。

当時のデリバリーはこんな神社にまで歩いて登って、食べ物に何も布を変えずにひっくり返ったら土に還るレベルの野晒し状態で運ばれていたのでしょうか。

まず、国立国会図書館で掲載されているコラムで「蕎麦」と調べたところ、こんな特集が。

寺社を訪れる目的は信心のためだけではありませんでした。寺社の境内や門前の多くには参拝者をターゲットとした茶屋や出店、見世物小屋などが軒を連ねて大変な賑わいでした。行楽地でも観覧客を目当てに料理茶屋や茶店などが立ち並び、その土地ならではの土産物が売られていました。名物を食べる、土産物を買うことも名所を訪れる楽しみのひとつでした。

ここでは、寺社の近くに出店を置いて商売をする旨が書かれていますが、今回の絵とはちょっとベクトルが違いそう。

大好きな太田記念美術館がこんなコラムを。!

この記事をこのままトレースしてしまうと、ただのパクリになるのでここから気になったものをピックアップしていこうと思います。

気になったのは「夜鷹蕎麦屋」というワード。

今回取り上げたいデリバリーとは異なりますが、移動式という点で関連ということにさせてください、、。笑


◼️夜鷹蕎麦

「夜鷹そば」とは、夜そば売りのことだが、いつから呼ばれるようになったか明らかではない。宝暦三年(一七五三年)写本の『反古染』の中に、「元文(一七三六~一七四一年)の頃より夜鷹蕎麦切、其後手打蕎麦切、太平盛り、宝暦の頃、風鈴蕎麦切品々出る」とあり、元文以前であることは確かである。
由来については諸説あるが、本所吉田町や四谷鮫ヶ橋あたりからゴザを抱えて出向き、両国・柳原・呉服橋・護持院ヶ原にたむろして、夜の路傍で客の袖をひいて売春した私娼を江戸語で夜鷹といい、この夜鷹が夜売りのそばを食べたからという説がある。また、夜鷹の花代とそばの値段が同じだったからという説もある。
また私娼とは関係なく、落語家の三遊亭円朝が『月謡萩江一節-萩江露友伝』の中で、「夜鷹そばは夜鷹が食うからではない。お鷹匠の拳の冷えるのに手焙りを供するため、享保年間(一七一六~一七三六年)、往来に出て手当てを致し、其廉(そのかど)を以て蕎麦屋甚兵衛というものが願って出て、お許しになったので夜鷹そばというがナ。夜お鷹匠の手を焙るお鷹そばというのだ」と語り、お鷹そばが転訛して「夜鷹そば」になったという説である。
江戸での夜鷹そばに対し、上方でも真似をしてかつぎ屋台が出たが、こちらはむしろうどんで、夜叫(鳴)うどんといった。

以前広重の『名所江戸百景』「御厩河岸」で見た遊女の夜鷹との関連はやはりあるようですね。

蕎麦一杯程度の値段で一晩買える遊女は「夜鷹」と呼ばれていました。

しかしその夜鷹との意味的な直接の関係はないよう。

「夜鷹そばは夜鷹が食うからではない。お鷹匠の拳の冷えるのに手焙りを供するため、享保年間(一七一六~一七三六年)、往来に出て手当てを致し、其廉(そのかど)を以て蕎麦屋甚兵衛というものが願って出て、お許しになったので夜鷹そばというがナ。夜お鷹匠の手を焙るお鷹そばというのだ」

という部分を見るとお鷹匠の手を焙るお鷹そばというのがいまいちよく理解できませんが、そばに関連する逸話がただ音が似ているという点で夜鷹という言葉になったのですね。

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鍬形蕙斎(北尾政美)の『職人尽絵詞』「夜蕎麦売」です。

略図見たいな印象を受けますが、立ち食いで道端でむしゃむしゃ食べるのに適している様子がわかります。

隣にいる痩せほそった犬にも分けてあげたいですね、


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三代歌川豊国の『神無月 初雪のそうか』です。

左下の男性が貪っているのかと思いきや、下駄を直しています。

この店の店主かな?蕎麦屋の箱の横から顔を出している犬は全身がまばらに爛れています。この蕎麦屋の熱湯でも被ってしまったのでしょうか。

夜鷹蕎麦と犬は基本セットなのでしょうか。

この絵では以外にも身なりのきちんとした女性たちもこの蕎麦を食べていることがわかります。普段は食べないけれど、こんなにしんしんと降りしきる雪の中だと寒すぎて食べたくなっちゃうのでしょうね。


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山東京伝作、北尾重政画の『忠臣蔵前世幕無』「風鈴蕎麦」です。

このどれが夜鷹蕎麦か判別が難しいですが、一番右じゃないですか?

一番左の「そば」と丸く囲まれている振売はただの出前な気がする。というか、この時代にちゃんと箱に入れるデリバリー制度がったのですね。さっきの人はなんで何も被せなかったんだろう、、。笑

真ん中は、、多分蕎麦じゃない気がします。なんとか酒と書かれていますね。

右は屋台に風鈴をつけていることから夜鷹蕎麦でしょう。内部に食器、棚があるのが見えます。

棚の前面に「い」を丸で囲ったマークが記されています。蕎麦屋だったら左の人のように「そば」と記せばいいのにそこに独特なマークを置くということはその店がその周辺で有名な夜鷹蕎麦としてブランド化していたという可能性もありますね。

丸井か、井丸かな?笑


そんなこんなで主題から大きくずれましたが、蕎麦屋の特に移動型である夜鷹蕎麦について見ていきました。

今日はここまで!


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