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「木母寺内川御前栽畑」−裁畑ではなく何を見ているお二人−『名所江戸百景』

今日も日曜の大河ドラマ。
先週の回を実は観れていなくて、義経がこんなにも追い詰められているなんて知りませんでした。
真っ直ぐすぎても不運に見舞われるなんて、今でもおなじですね。人を信じすぎてもその素直さは可愛いものですが、振り回されたり、いいように使われたり、逆に正反対に人を信じられたくなったり。

ま、そんなことを先週見ていない口がほざいています。

大河でこんなに日曜日が楽しみになっているなんて黒田官兵衛以来です。あれも面白かった。

そんな大河にアガッテいる今日も広重。今回は『名所江戸百景』「木母寺内川御前裁畑」です。

◼️ファーストインプレッション

昨日一昨日に続き、内川・木母寺周辺ですね。
この流れているのが内川ですね。2日前の「真崎辺より水神の森内川〜」にて、題名だけ登場していました。

題名の木母寺については、昨日見た『江戸名所図会』でチラッと扱いました。しかしどんな由緒か、どんな描かれ方をするのかを見ていきたいですね。
描かれている二人の女性は木母寺にどんな用事があったのでしょうか。花のある方を指差しているので点在している花を見回っているのでしょうか。


◼️木母寺

木母寺は天台宗の僧、忠円阿闍梨により、平安中期貞元元年(976)に開山後、梅若寺 隅田院とも称しました。天正18年(1590)徳川家康によって梅柳山の山号を得、慶長12年(1607)には前関白近衛信尹が参詣し、柳の枝を折って筆代わりに「梅」の異字体「栂」を「木」と「母」に分けて以来、現在の寺号になりました。木母寺は江戸時代が最盛期で、その境内には隅田川御殿が建てられ、徳川三代将軍家光の時代から八代将軍吉宗の時代までの将軍が鷹狩りや隅田川を遊覧されたり、将軍に献上する御前栽畑もあり、徳川家との関係が密でありました。
明治維新の廃仏毀釈によって梅若神社となりましたが、明治21年(1888)光円僧正が仏寺として再興されました。昭和51年東京防災拠点建設事業により160mほど移転し、現況に至ります。

ここは元々、天台宗の僧が開山して梅若寺と称されていたそう。
その僧がなぜ開山したかというと、京都の公卿の息子である梅若丸が人買いに出されて、隅田川のほとりで息絶えたことを哀れんだことからであるそう。
後に梅の異体字を分解した「木・母」で、木母寺とされたらしい。
家康ゆかりのお寺ということで、その近くに吉宗が桜を植えまくったのも納得できます。

御前栽畑というものをよくわかりません。

http://www.mnagano.net/edo100/data/simage092.html

広重の「絵本江戸土産」 には御前栽畑に「作り松多くありて、もっとも美景いうばかりなし」との記述がある。

その言葉での意味は出てこなかったので、どんなものかのニュアンスで捉えようと思います。
ちなみに参考にしている『広重TOKYO 名所江戸百景』では
四季の野菜を栽培して将軍の御膳へ献上した畑」とされているので描かれていないところに畑があるのでしょう。

しかし描かれている作り松というものがは御前栽畑の一部ですね。

『絵本江戸名所』「木母寺料理屋御前栽畑内川」です。
ドンピシャですね。
「この場内に梅若の塚あり毎年三月十五日の念仏供養をなす(縮んで読めない、、)料理やありて〇〇○すのき○にての○りて○○らん栽畠といふありとのところに作り松多くありてもっとも美景といふばかりなし」

全然読めねええええ。悔しいです。

三月にあった念仏供養のための木母寺なのかな?
作り松あったのが『絵本江戸土産』の画面左の林ですね。松なので松林か。
これは放置していたら自然にニョキニョキ生えたものではなく、幕府のために作った松、巨大な盆栽ということなのでしょう。

『江戸名所図会』「内川・御前栽畑」です。
「内川 木母寺の後の方の小川をいふ或人の説にその古荒川綾瀬川子投に流れにて時の古跡るりといへり」
「御前栽畑 同○内川を○てく北の方の出捌をいへあて作松のごとく○美景あり」
んーーーーって感じ。

とりあえずこの辺りの木母寺の御前栽畑は、誰にとっても美景として目に写っていたのですね。
それを美形としてあまり描いてない気がするのは気のせいかな?
女性二人が指差している方向とはまた違う気もしますからね。
是非とも広重の描く御前栽畑の、豊かさを見てみたいものでした。

今日は木母寺、とその由来、そして描かれている御前栽畑について見ていきました。

今日はここまで!
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