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「湯しま天神坂上眺望」−息切らして登って大金、ゲットだぜ!−『名所江戸百景』

今日は一ヶ月半ぶりにお友達と外出しました。
お話ししすぎて喉が痛い笑。
次に会う時の約束もしたしその子を含めて会う約束がいくつかあって楽しみです。
それを楽しみに勉強頑張ってます、、。

そんな息抜きをできた日も広重
今回は『名所江戸百景』「湯しま天神坂上眺望」です。

◼️ファーストインプレッション

湯島天神ってこんな坂の上の高い場所にあることに意外性を感じましたが、確かに私の記憶を遡れば坂の上だった気がしてきました、、。
(回想シーンのモクモク。。。。。)
中学校の3年の頃、高校受験祈願のために元日に湯島天神にいきました。その時3時間くらい並んでやっとお参りできた記憶もありましたが、並ぶ時に社殿の正面が長めの坂道だった記憶があります。
まあ、坂道は登っても高校受験は第一志望落ちたんですけどね。?

正面に広がる不忍池には中島聖天も見られ、奥に観音堂も頭を出しています。
こちら側の岸には屋根が連なっていますので以前やった武家屋敷の連なりでしょう。
この湯島天神に辿り着くまでにこんなに長い階段を登って来なければいけないのですね。
絵は白と青、そこに差し色としての赤が加わることでスッキリした色合いにまとまっていますね。

◼️湯島天神に行くまで

上野方面にある湯島天神は日本の中でも有名な学問の神様が祀られている神社ですね。なので私は高校受験の時に合格祈願をしに行ったのですが、、。落ちたけど。(実力不足)

https://www.yushimatenjin.or.jp/pc/index.htm

「天神信仰」とは、神さまとして崇められた菅原道真公の神霊に対する信仰をいいます。本来は、天神とはは地神(くにつかみ)に対する「あまつかみ」で、特定の神さまをさすものではありませんでしたが、菅原道真公が火雷天神と称され、雷神信仰と結びついたり、「天満大自在天神」の神号を賜わったことにより、菅公の神霊への信仰を、「天神信仰」と一般的に呼ぶようになりました。

確かに〇〇天神とつく神社に菅原道真が祀られていることはなんとなく分かってはいましたが、こういった理由があることを知りませんでした。

湯島天神は 雄略天皇二年(458)一月 勅命により創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、降って正平十年(1355)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、文明10年(1478)十月に、太田道灌これを再建し、天正十八年(1590)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷に朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。

雄略天皇の時から始まっているのですね。万葉集で、畑にいた女性をナンパして嫁にしようとしたエピソードを読んだことがありますが、相当昔だと思っていたけれど湯島天神に縁があるとなると思ったより近く感じるのは不思議なことです。

家康公に崇敬されていたその後も林道春新井白石などの学者たちも篤く参拝したそう。

こちらが境内の全体図です。
右上の方に女坂、男坂、鳥居マークが配されているところがありますね。
そこを今回は描いているそう。
絵には右下の階段の上にある石柱に「男坂」という表記があるので正面の坂は女坂であることがわかります。

なので、赤ピンの湯島天神宮女坂のところは昨日見た上野広小路の辺りからは真っ直ぐ西に向かった方向に位置しているのですね。


◼️富突という楽しみ

近世の縁日は、毎月十日・二十五日で、境内とその界隈は江戸有数の盛り場で、宮芝居や植木市、各地の出開帳があり、江戸町人の憩いの場として繁盛した。
また富突は、今日の宝くじに当たり、谷中感応寺・目黒不動とともに江戸三富と称して代表的なものであった。文化九年には(1812)湯島天神は目黒不動とともに公許され、境内は熱狂した群集でわきかえった。

当時の縁日の楽しみというと宮芝居植木市出開帳などがあったそうです。

【宮芝居】
神社村内仮設舞台で演じられた三番叟はじめとする歌舞伎茶番狂言

https://www.weblio.jp/content/宮芝居

【出開帳】
寺院で、ふだん公開しない像などを何年間隔かで一定の日を限って、参詣人に拝観させること。また、寺院の厨子(ずし)を開いて秘仏を特定の日だけ一般人に拝ませること。

https://kotobank.jp/word/開帳-42679

それぞれの意味です。
ああ、受験日本史の記憶が蘇ってきました。

このような楽しみもあったそうですが、湯島天神で最も盛り上がったのが富突という宝くじのようなもの。

しかし幕府は、その後も寺社にだけは、修復費用調達の一方法として、富くじの発売を許したので、これを天下御免の富くじ“御免富(ごめんとみ)”と呼びました。特に、“江戸の三富”として有名だったのは、谷中の長耀山感応寺(ちょうようざんかんのうじ)、目黒の泰叡山瀧泉寺(たいえいざんりゅうせんじ)、それに湯島天神の富くじでした。
幕府公認の御免富も、その後天保13年(1842年)の天保の改革によって禁止されてしまい、明治になってからも、明治元年(1868年)の太政官布告によって、きびしく禁じられました。天保の禁令以来、103年もの長い間、日本では富くじは発売されませんでした。

寺社でしかできない行事だからこそ盛り上がったのですね。
江戸の三富”として谷中、目黒、湯島が有名だったそう。

『萬々両札のつき留』

神社にあるようなガラガラ箱をゆすって出た棒の番号で運が決まる方法なのでしょう。
手を上げている男性は大当たりしたのか大損したのかわかりませんが周りもその結果に一喜一憂しています。

「当世名物鹿子」「寺社仏閣の一乃富」です。
日本銀行金融研究所貨幣博物館所蔵

こちらは富くじ売り場の店先であるそう。
遊女なのかな、それとも一般の女性なのかわかりませんが、真剣な面持ちですね。
犬二匹がその様子を見ているのが可愛らしい光景。

また何かの合格祈願で行くことはないとは思いますがまたいきたいな!

今日は描かれている場所と湯島天神の由緒、湯島天神の代表縁日を見ていきました。

今日はここまで!

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