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「玉川堤の花」−桜と水路が寄り添う理由−『名所江戸百景』

今日は丸一日時間を取って勉強することが出来ました。集中できて良かった。

夕方にはウォーキングにも行けて、心身ともに健康的だったかな。夕方からまた寒くなってお腹下しそうになったけど。

そんな満足感ある日も広重。今回は『名所江戸百景』の「玉川堤の花」です。

◼️ファーストインプレッション

桜と水路の連続がとても美しく、カーブで奥まで続いている光景が立体感を生み出しています。
ここが新宿を舞台にしているのは以前何かで見たことがありました。この川の右にある建物は昨日のような旅籠屋でしょうか、それとも食事処でしょうか。
二階席から花見をしている様子が描かれています。赤い着物を着た女性たちが顔を出していますね。
この玉川というのは、もしかして玉川上水かな?多摩地方にも続いていた水路なのは当時の名残でしょうか。
この桜の堤もどこまで続いていたのでしょう。
花見をしにたくさんの人々が訪れているのがわかります。みなさん結構青系の着物を召しているのが印象的。桜と水路を一番に目立たせたいために、人々を道路に溶け込ませようとしたのかな?

◼️玉川上水

やはりこちらの水路は題名の通り、玉川上水であるそう。

全長約43キロメートル、標高差はわずか約92メートルの緩勾配(緩い傾斜)です。羽村からいくつかの段丘を這い上がるようにして武蔵野台地の稜(りょう)線(尾根:谷に挟まれた山頂など高い部分の連なり)に至り、そこから尾根筋を巧みに引き回して四谷大木戸まで到達する、自然流下方式による導水路です。
(中略)
兄弟は褒章として玉川の姓を賜り、200石の扶持米と永代水役を命ぜられました。

43キロにも及ぶ水路だったのですね!開削が完遂するまで相当な労働力を要したでしょう。
やはり今も玉川上水駅という駅が西武新宿線沿線で多摩地方にありますのでその方面にまであったことは確かなようですね。
そこから四ツ谷まで引いて、しかも流れは高低差による自然な流れ。

この流れも現在の小金井市あたりになると、水路の幅が広くなり船も通れるほどであったそう。

一番右の赤ピンがまさに四ツ谷あたりの玉川上水の始まり。そこから赤ピンを辿って東大和市と立川市の間の赤ピンに最後たどり着きますが、こちらが玉川上水駅。赤ピンここで止まってしまっておりますが、その西の方向に目をやると「羽村市」という文字があります。そのあたりまで玉川上水は引かれていたということになるのです。

江戸時代の人々が江戸の中心地から羽村の方面にまで水路を開削していたのを、地図で確認すると開削は一大イベントだったのだと思います。

余談ですが、この桜並木については、地図の左から3番目の赤ピンに近くにある「桜堤」という地名があります。そこは深めの川に沿って桜が植えられている堤になっていて、中央線約3駅分に沿って伸びている場所がこの名残ではないかと考えてしまします。根拠はありません。知っている場所なのでそうであってほしいという願望込みの妄想です笑。
絵では新宿あたりなんですけどね。

名所だったかは昨日の『江戸名所図会』を見ればわかりますが、挿絵にも本文にも記載がないのが不思議なところ。これだけ人々が訪れるような場所であれば地誌にも記載があっていい気がしますよね。

◼️この絵の桜について

この絵の桜が名所であるべきだと思ってならないのですが、なんだか訳ありのよう。

いつも参考にしている『広重TOKYO 名所江戸百景』小池満紀子さん・池田芙美さんの書によると、『藤岡屋日記』というものにそのワケがあるらしい。

江戸時代後期から幕末の江戸を中心とする記録集。東京都公文書館に写本150巻152冊が現存する。編著者の藤岡屋由蔵(須藤姓)は神田の古本商。1804年から1868年に至るまでの幕府政治関係の諸記録をはじめ,市中の事件災害風評落首などが編年で記され,当時の世相が知られる。《近世庶民生活史料 藤岡屋日記》として刊行されている。

市中の話まで載っているのできっとこの桜の話も有名な話だったのでしょう。

国立国会図書館デジタルを見てもその原本を見ることはできませんでした。五月十九日には確か、これまで閲覧禁止だった資料も公開されるというニュースを最近見つけましたのでその時の解放具合に期待です!!

なのでこちらのページに頼ることにします。きっと個人のページなんでしょうけれど、内容がしっかり載っているので参考にさせていただきます。

と思ったけれど、該当部分が載っていないー!こちらはきっと当時起きた出来事を描いた浮世絵に関連したものを抜粋して載せているのですね。

なので参考書を元に何が『藤岡屋日記』に記載があるのかというと、、、
内藤新宿の土手にある桜は御用木として植えられていたものであったそうですが、偽りだったよう。これが幕府の御林奉行にバレて、一ヶ月足らずで撤去されてしまったと言います。

なのできっと名所になるほど江戸中に染みていないような光景だったのでしょう。
広重はそれを知っていて、当時の光景を水路だけの景色に重ねたのでしょう。
ここを観光する人々よりも桜と水路を目立たせた描き方をしたのは、泣く泣く撤去された桜に思いを寄せていたからではないかと感じますね。
ここの広重の心情についてもっと深掘りしてみたいと思ってました。

今日はこの水路である玉川上水と、描かれている桜と広重の感情について考えてみました。

今日はここまで!

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