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「南品川鮫洲海岸」−モノクロの岸に海苔が送られる、、−『名所江戸百景』

今日は好きな人とゆったりと海鮮丼を食べてアイスを食べて〜な日でした。最近時間とやるべきことに追われていて余裕のない日ばかりを過ごしていましたが、ゆったりとした時間を過ごせて幸せでした。

最近Amazonで六冊くらい浮世絵に関する本を買ったのでそれを夜は読み進めていきたいと思います。

そんな余裕ぶった今日も広重。今回は『名所江戸百景』「南品川鮫洲海岸」です。

◼️ファーストインプレッション

意外にもこの絵は海岸を描いているからなのか、岸の上には色が当てられていません。灰色の濃淡で物の区別をつけています。
だからこそ、海の青さと草の茂っている様子が引き立っています。
手前から奥に向かって曲線を描くように草の集合が描かれていますが、その先にある山に目線が導かれますね。
この山は二つのコブがあるのできっと筑波山。筑波山の方向を向いて描いていることになるので江戸湾に背を向けているか、右に置いているかの位置関係になるというわけです。

手前の草っていうのも変ですが、生い茂っている藻のようなものを刈っている船がありますね。海苔か何かかな?その漁が盛んだったのでしょうか。

シンプルだけれど色々ヒントの多い作品ですね。

◼️鮫洲海岸

ロバート秋山のネタ歌の「願い」に”鮫洲も今月行かなきゃダメだし”というフレーズがあったことから東京に鮫洲という地名があることを高校生の時に知ったのを思い出しました。

MacをアップデートしたらGoogleマップのズームがやりにくくなったのですが、どうにかスクショできました。
しかも今回は鮫洲海岸とは言っても実際現代の鮫洲を表しているわけではなさそうです。なので参考文献に頼りました。赤ピンの浜川砲台跡とされているところがこの絵を描いている場所であるそう。
そこから北の方にある筑波山を眺めているように描いているというわけです。

南品川宿南端から北浜川にかけての地、東側の海に面した地域を鮫洲と称した。名前の由来は、「干潮時に海中や浜辺の砂の中から清水が出るため「砂水さみず」」、「この海で建長3(1251)年に死んだ大鮫が揚がり、その腹から観音像が出て来たので「鮫洲」」、「左の方の海辺に出水があったので「左水さみず」」など、諸説ある。

鮫洲という独特な名前には人々の興味が湧くような由来があるそう。
砂の中から清水が出る・死んだサメの腹から観音・左に海水という三つの有力な説によってついた名前であるのですね。
というかサメが沖に揚がってくるの結構異常現象めいたこと起きていませんか?笑

◼️浅草海苔

突然浅草海苔と言いましたが何かというと、この海に生え茂っている草たちが海苔のことです。
この生えている草は海苔しびと呼ばれる粗朶というものを海中に立てて、付着した海苔を収穫するためのもの。
 

こうやって横棒に支柱を立ててそこが海苔のくっつくように海水に沈めて、海苔が付いてきたら収穫するスタイル。
この柱の間を縫って船を移動させていたのですね。

なんでこの鮫洲でとれた海苔を浅草海苔と呼んだかというとこちら。

①江戸時代以前、浅草は海に面していて隅田川河口にあり、美味しい生海苔が獲れていたようですが、その浅草には紙漉きの技術があり、その要領で板海苔へ浅草で加工し浅草寺門前で販売したころから「浅草海苔」と呼ぶようになった。
 
 ②大森辺りで獲れた養殖の生海苔を、浅草紙の紙漉き技術のある浅草で加工販売するようになった。

 ③大森周辺で採取した養殖の生海苔を加工し浅草で販売した。
 
 ④これらを併せたような説として、浅草周辺で採れた海苔をそのまま乾かす方法があり、この時に「浅草海苔」と呼ばれ始め、18世紀に入り大森・品川辺りで養殖が始まり「江戸前海苔」・「品川海苔」などとも呼ばれ、最大の養殖・製造を行う生産地となっていった。

上の四つが由来の説です。
四つとも少し似たり寄ったりなものが並んでいますが、浅草で、ではなく鮫洲や大森周辺で収穫された海苔を浅草の紙漉き職人によってよくある海苔の形にして売ったからなのだということ?。
確かに以前この『名所〜』の前半に浅草界隈を見た時に結構川が描かれているのを思い出しました。今では隅田川は近くても海苔が取れるような場所ではないので海苔と関連した時に「なぜ?」となってしまうのですね。


今日は確かになっていないことを説として並べながら見ていきました。

今日はここまで!

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