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「神田明神曙之景」−なんか煮え切らない締めくくりをしました。–『名所江戸百景』

やっとやっと元気を取り戻して書けるようになった今ですが、大河ドラマを観ながら書いています。

そこで中村獅童演じる梶原景時石橋山の戦いで隠れていた大泉洋演じる源頼朝を見逃すところを回想するシーンが放送されていました。
「伏木隠れ」といわれるシーンですが、この前行った森アーツギャラリーで開催されている『HERO'S 刀剣×浮世絵 武者たちの物語』でこのシーンを取り扱った作品があったのを思い出しました。

『伏木隠れ図譚 銘 瀬尾美寿造』
HERO’S 刀剣×浮世絵 図録より

この隠れている3人は頼朝軍かな?気に隠れているからそうでしょう。
景時が弓で中を探って味方を欺いて「いない」と言い、その時に山鳩が飛んでいったことで疑念が晴れて頼朝は難を逃れることができたということ。
なので左には鳩が彫られていますね。
今日の大河ドラマでは景時が「殺すのはいけない気がした」的なことを言っていました。頼朝が神の子である所以が描写されていました。

そんな大河ドラマと展示会の記憶を重ねた今日も広重。

今回は『名所江戸百景』「神田明神曙之景」


◼️ファーストインプレッション


でた、モチーフをはっきりさせずにしかも木を描くにも全体を描かずそこに佇むままに描く法。(勝手に命名)(長い)

曙ですので日出ごろ。
左に立っている神主的な人の着る着物のグラデーションがなんとも現代的。
右に立つ女性は巫女さんかな?長いポニーテールが可憐ですね。
その横のボーイは何の役目の人でしょう。一人だけ他の二人とは違い薄着で貧相な格好をしています。


◼️神田明神

この絵で描かれている神田明神は境内の一部ですが、神社自体は本当に大きな建物!真っ赤な本殿が目を惹く迫力です。今はね。

社伝によると、当社は天平2年(730)に出雲氏族の真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。
その後、将門塚周辺で天変地異が頻発し、将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に奉祀いたしました。戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。
慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。

https://www.kandamyoujin.or.jp/profile/

神社の始まりは8世紀前半。
平安京も出来ていないような昔のこと。
そこから平将門の御霊を納め、戦国武将たちに崇敬されてきたそう。

江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬をお受けになられました。

https://www.kandamyoujin.or.jp/profile/

そこから江戸をも守る鎮守の神として祀られていったそう。

https://www.asoview.com/note/735/

迫力がやはりすごい。
三年前にイベントがあっていきましたが、晴れた空に映える朱色でした。

神田明神を描いた他の絵を見ていきます!

歌川広重『東都名所』「神田明神」

『名所江戸百景』の絵と同じ場所から描いているのでしょう。
『名所…』の方にあった骨組みと座敷がこちらにも同じ様子が描かれています。
この絵では祭りがあったのか、人々が飲み食いをしながら歩き回っています。


歌川広重『東都名所』「神田明神東阪」

神田明神ってこんな高台にあったのですね!
題名にある通り東阪という坂を登っているのかな?
今は周囲に高層の建物が並んでいるのでこんなに景色の良い場所であることが分かりませんね。


◼️仕丁の存在

この絵に描かれる右側にいる半ズボンの男性。
彼は仕丁という役割だそう。
仕丁は神事や祭りで物を運んだり雑役に従事する人のことです。

⑤江戸時代、特に御台所(みだいどころ)で、御輿舁(みこしかき)その他諸事の使役に供する者。じてい。〔吏(1845)〕
⑥ 神事や祭などで、物を持ち運んだり雑役に従事したりする者。

https://kotobank.jp/word/仕丁-73899

彼は桶を持っていますので正月の「若水迎え」の様子であると言われてるそうです。

元日の行事の使い水で,口をすすいで身を清めたり,神への供物や家族の食物の煮たきに用いたりする。若水汲みは〈若水迎え〉ともいわれ,儀礼的な色彩が濃く,若水手拭で鉢巻したり,井戸に餅や洗米を供え,祝いの唱え言をしてくむ土地が多かった。

https://kotobank.jp/word/若水迎え-1442032

だとしたら初日の出を眺めているのかな?
若水迎えだとした時、彼の立場になってみるとすごく寒い、、、。

これがただの水遣りの場面だったら、祭りの様子である可能性もありますね、、、↓


◼️神田祭

歌川貞重『神田大明神御祭図』

この図、実は以前見たことがある絵に非常によく似ているのです。
山王祭の時の同じ構図の絵を載せておきます。

歌川国輝『山王御祭礼図』

手前の鶏冠のある鳥、次に猿が当てられているのは山王祭の山車の順序として決まりがあったのでしたね。


実は神田祭も同じような祭で、山車を回して江戸城に向かうものでした。
これは山王祭のように決まったルートを一周するものではなく、江戸城に向かい将軍に上覧するもの。

江戸三大祭の一つとして山王祭と隔年で9月15日に開催されました。

「天下祭」として知られる神田祭は、元和年中までは船渡御であったと言われている。延宝年中までは毎年斎行されていたが、山王祭(千代田区・日枝神社)と隔年で斎行することになり、以後今日までに2年に一度斎行されることが恒例となった。 江戸幕府の庇護を受け、江戸城・内曲輪内へ、2基の神輿、36番45本前後の山車や附祭、御雇祭などからなる祭礼行列が練りこみ、徳川将軍や御台所の上覧があったことなどから、江戸の庶民たちからいつからか「天下祭」と称されるようになった。 また、江戸時代を通じて全国的に有名な祭のひとつとして「日本三大祭り」「江戸三大祭り」の中に数えられたている。

https://www.kandamyoujin.or.jp/kandamatsuri/about/

この山車の代表的なものなども見ていきたかったのですがそれを詳細に記している資料というかサイトがなかったので今日はここまでとします。。

今日はこの絵の舞台である神田明神について、また描かれている仕丁の様子からわかることを調べてみていきました!

やっぱり図書館に入り浸って資料を掘りまくる作業をしたいなあ、、!

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