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「亀戸天神境内」−フランスも魅了した藤の枝垂れ−『名所江戸百景』

さあ、四日だか三日ぶりに記事を書き書きします。

なぜいきなりこんなに間が空いたかというと、、、

月曜日…ディズニーランドに行った帰りに絶空腹に油そばをぶち込んで腹痛で嘔吐&気絶しかけて深夜にダウン。

火曜日…バイト研修の後、四年ぶりに会う高校の友達たちと飲み会をして終電で帰宅、当たり前のように泥酔して撃沈。

水曜日…朝6時に起きて9時から6時間の研修。夕方になっても昨晩の酔いが抜けず船酔い状態。帰宅して即寝たらいつの間にか夜。

木曜日…最寄りと乗り継ぎの電車での大遅延を経て、5時間の研修。研修中に定期的な体調不良に苛まれ、帰宅途中から吐き気、ダルさにより撃沈。当然の如く寝込む。

ざっとこんな感じの一週間を過ごしました。

こんなに無理できるのも今のうちだからちょっと楽しかったというのが本当のところ。笑

たくさんの友達に会えてかなりの元気をチャージしてもらいました。

また今日からやるべきことに集中して行かないといけませんね!頑張ろう!

そんな切替の瞬間も広重。今日は『名所江戸百景』「亀戸天神境内」です。

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◼️ファーストインプレッション

亀戸天神は三年前くらいに初詣に行ったことがあります!藤が枝垂れているところで、その向こう側に曲線がきつめの橋がかかっていて、下に水が流れいます。

一瞬でこの絵を見たときにとても華やかだなあと思ったのが第一印象です。

手前に藤が枝垂れていてその反対岸に松が水面に向かって生えています。植物に溢れた水面でとても瑞々しい印象も受けます。

奥の橋のアーチはとてもきつめで確か今もそんなカーブを持った橋だった記憶があります。人々が右に向かって渡っています。きっと右の方向に天神様が祀られる神社があるのでしょう。

この橋という重要なモチーフに、藤の枝を被せたり、松を下に配したりする構図は当時のフランスでも大ウケだったのではないでしょうか。日本画には俯瞰する方法も特徴的なものがありますが、主観的に、しかも視界もリアルに邪魔してくるもの特徴的でしたね。

この絵の華やかさの手助けになっているものは、奥の道の赤いぼんぼりのようなもの。この真っ赤な丸の並びはよりこの絵を華やかにしていると思います。

◼️亀戸天神

亀戸天神はその名の如く、亀戸にある天神様です。

以前行った時の写真を掘り返して見ました。

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左手にスカイツリーがあって、とても今昔折衷的な感じがします。結構大きな神社で周りに出店が並んでいました。

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少し引きでみた時の天神。いくまでの道の両側に藤棚が置かれています。行ったときは初詣の正月だったので花は咲いていませんが、満開になった時は迫力が凄そう。

私が写真を撮っているのがまさに橋の上。人よりちょっと高いところから見下ろしています。

写真から分かる通り、橋の頂点ではないのに結構高いところから撮っているのでかなり曲線がきついカーブの橋でした。

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こんな感じで橋の近くだけでなく、かなり手前から藤棚が並んでいます。

これは名所になるべくしてなる華やかさを誇りますね。

古くはご本社にあたります九州太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と称されておりましたが、明治6年に東京府社となってより亀戸神社と号し、昭和11年に現在の亀戸天神社と正称いたしました。
正保三年(1646)九州太宰府天満宮の神官でありました菅原大鳥居信祐公(道真公の末裔・亀戸天神社初代別当)は神のお告げにより、公ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもって、遠くは日光または盛岡などの諸国を巡り歩かれ 、そして江戸の本所亀戸村にたどり着かれ、村に元々ありました天神の小さなほこらにご神像をお祀りいたしました。

九州の太宰府天満宮の東バージョンとして祀られたのですね。

道真の末裔である亀戸神社の別当が、神のお告げを受けたことが起源だそう。

道真飛び梅の枝というもので天神像を掘り、それを亀戸村に元々あった天神の祠に祀ったことから神社が始まったようです。

当時徳川幕府は、本所の町を、江戸の大半を焼き尽くした明暦大火の被害による復興開発事業の土地とさだめ、天神様を篤く信仰していた四代将軍家綱公はその鎮守の神様としてお祀りするように現在の社地を寄進されました。
そして、寛文二年(1662)10月25日に太宰府の社にならい、社殿、回廊、心字池、太鼓橋などを営み、以来約350年後の今日まで東国天満宮の宗社として崇敬されてまいりました。

時代が経ると、江戸時代の明暦の大火で江戸を守るように鎮守の神とし祀り、現在の場所に寄進されました。

それ以降、名物の社殿や回廊、心字池や太鼓橋が営まれたそう。

この天神を彫った飛梅というもについて知って見たいと思います。

梅の木が飛来して、その場所に根づいたという伝説である。福岡県の太宰府(だざいふ)天満宮にある飛梅が有名である。菅原道真(すがわらのみちざね)が左大臣藤原時平(ときひら)の讒言(ざんげん)によって大宰府に左遷されるとき、邸内の梅の木に「こち吹かば匂(にお)い起こせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」と詠んだので、その梅の木が天満宮に飛んだという。歌の威力を示す内容で、早くから『十訓抄(じっきんしょう)』などの説話集に取り上げられている。悲憤の死後、雷神となって天下を震撼(しんかん)させる道真の威力を、生前のできごとで印象づけるかっこうの材料となった伝説である。ただ、この伝説の背景には「飛び神信仰」があるといわれる。

道真が左遷されたときに、置かれた場所の梅の木に詠んだ歌を彫ったそう。その梅の木が天満宮に飛んでいったことが飛梅の伝説の元になったものです。

道真は左遷された恨みから、京都に雷を落としたという伝説もありましたね。そんな道真には飛び神伝説があったようですね。

神は古代の絵画にも描かれたように、自由に動き回ったり姿を消したりすることができるものだったので、道真の悲惨な運命と重ねてその伝説が出来上がったのでしょう。

◼️モネへの影響

この絵は第一印象を申したときにフランス画家への影響がありそうと書きましたが、実際に印象派のクロード・モネが感銘を受けて似たような絵を描きました。

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この絵は実際に「亀戸天神境内」の影響を受けて、自宅に太鼓橋を造ったものであるそう。

自宅に日本庭園を模したものを造り、それを対象に描いていったそう。

このようにこの絵はフランス印象派画家たちに影響を与えた代表的な絵になりました。きっとゴッホも感銘を受けてアルルに思いを馳せていたかもしれませんね。


今回は亀戸天神の由緒、道真伝説、与えた影響について見ていきました。

今日はここまで!


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