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「小奈木川五本まつ」−月には五本松がよく似合う、、?−『名所江戸百景』

今日はアルバイトの研修を本店で行いました。

そこに同期となる方達と初めて顔を合わせて、いろいろお話ししました。みんなフィットネス系の同じ趣味や目標を持っていて、初めてボディメイク友達ができてとても嬉しかったのです!

これまで友人にフィットネス系の話をしてもちょっと馬鹿にされている感が否めない空気や何を目指しているのかと笑われることも多かったのですが、今日はみんなで肯定しあって実践している事を情報交換したり、有意義な時間を過ごて幸せでした!

なんかまたジムトレに勤しむ習慣を始めようかな、、。とやる気アップした日も広重。今回は『名所江戸百景』「小奈木川五本まつ」です。

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◼️ファーストインプレッション

湾曲した川に一隻の船が人々を乗せて進んでいるのが印象的ですね。荷物と人々を乗せていると共に船の外に手を出して川の水に触れている人もいます。前後に船を漕いでいる人が脚を露わにして一生懸命漕いでいます。

また、手前の道から伸びている木々が向こうの川とこちらの世界を隔絶しているみたいに感じます。生えていると思いきや画面左からニョキッと伸びている松の枝を支えている支柱でした。

この題名にある通りこの川は小奈木川と言いますが、現在の称し方では小名木川ですね。

◼️小名木川

小名木川は東京のここに位置します。

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昨日見た元八幡の北部ですね。

1590年(天正18)、徳川家康の江戸入府によって江戸が建設され、城下の町割りが行われました。小名木川は、この江戸の建設と物資を関東各地から運ぶために、江戸川(当時の利根川)流域と江戸を結ぶ水路として開削されたものです。行徳の塩を江戸城に運ぶため開削した川でもあり、その名称の由来は開削に携わった「小名木四郎兵衛」にあります。

行徳の塩を江戸城に運ぶために、小名木四郎兵衛が開削した川であるそう。

この川から江戸城に物資を運ぶルートが確立したそうです。

この川を移動する船を長渡舟と言って行徳と江戸を往来していました。

◼️五本松

題名にある五本松というのが今は残っていませんが、史跡としては残っているそう。

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江戸時代、小名木川北岸の九鬼家の屋敷に、枝を張った形の良い老松がありました。徳川吉宗がこれを感嘆したことから有名になり、名所となりました。
松尾芭蕉がこの場所に舟を止め、「川上と この川しもや 月の友」の句を残したり、歌川広重が描いたりもしています。
明治の末にこの松は枯死しましたが、昭和63年(1988)9月、現在の地に復活しました。

この松は吉宗の時代からあったのですね。松尾芭蕉も感嘆したほど、、!

「川上とこの川しもや月の友」、、。どういう意味でしょうか。

今宵は名月。私はこうして小名木川の五本松で川面に揺れる月を眺めているが、この同じ川上には私の心の友もこれと同じ月を眺めているであろう。
 川上で眺めている「月の友」が誰であるかはもちろん分からないが、古来山口素堂であろうといわれている。

川上にいる自分の心と川下にいる友人の心が一つである事を願っているのですね。


五本松を取り上げた絵画を紹介します。

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小林清親「五本松雨中」です。

小林清親はいずれしっかり図録を買って見込んでいきたい画家の一人です。少し川瀬巴水味を感じるのは時代のせいでしょう。

五本松は川の方向に枝を伸ばしていてそれが特徴的だったのでしょう。

小林清親は夜の風景や陰影を誇張した描写が多いので、この絵に月は描かれていなくとも松尾芭蕉の俳句の光景が浮かんできます。

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昇斎一景『東京名所四十八景』「小奈木川五本松」です。

対岸に五本松がある構図で、『名所江戸百景』の描写位置と向き合う形ですね。

この川はいつ描いても船で物を運んでいるのがよくわかります。

五本松は明治時代に入って、朽ち枯れてしまったそうです。江戸時代の人々にはとても印象的な目印だったようで、『絵本江戸土産』に「稀代の名木なり」と称されていたほどであったそう。


今回は小名木川と五本松について、そして五本松を描いた絵画について見ていきました!

今日はここまで1

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