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カニ広場についての妄想


 人類の騒動が止まらない。身近な問題ではドルフィンポート跡地をどのように活用するのか?で大騒ぎ。自分は、迷ったら自然に還すのが一番だと感じている。都市部において、これ以上の開発は果たして必要なのだろうか。田舎暮らしを続けている自分からすると、何を作るにせよ、パーティーを続けたがっている様にしか映らない。
 
 2022年の映画「ザ・バットマン」の悪役は「街を再開発する人たち」という設定で、ものすごくリアリティがあった。再開発という言葉には本当に抵抗がある。
人が集まる場所の成功実例を、さらに成功実例で上書きする方がマネー経済的には手っ取り早いのだろう。再開発が好きな人たちは、開発されていない限界集落のような場所に目を向けて欲しい。鹿児島全体の寿命を考えると、そちらの方が得策だと思えるけど、違うのかしら?

 SDGsが叫ばれ続けているので、地球の寿命についてはそれなりに責任を感じる時代になってきた。しかしそれと相反するようにGoToキャンペーンでいろんなところに行けと勧められる。ここで、膨大な移動エネルギーの消費について語られることはない。誰しもが、毎日の行動と大義の間で禅問答を繰り返している毎日なのだと思う。脱炭素と原発の親和性が高いと言われても、どう納得すれば良いのか!我が家もそれなりにエネルギーについて考えて電気自動車を導入したが、その寿命はガソリン車よりも短く、買い替えを迫られてしまった。

 

コロナ騒ぎが始まった頃、目指すべき地球の姿を想像しながら描いた

中学生の頃(1980年)、カール・セーガン博士による「コスモス」という科学番組から影響を受けた(博士は映画「コンタクト」の原作者としても知られている)。そこで提唱された~宇宙の誕生を元旦、現在を大晦日とする~「宇宙カレンダー」というアイデアが秀逸だった。
 その暦によれば、人類が火を利用したのが12月31日の23時44分だという。直近の437年は12月31日の23時59分59秒にあたる。つまり「新参者」の私たちは最後の1秒で地球を引っ掻き回してしまったのである。「人新世」と呼ばれる時代、人類は地球の寿命を縮めている悪役だ。

 新参者という当事者意識をきちんと持てば、老舗の意見も聞いてみたくなるというのが普通の姿ではないのか。何億年も前から地球を見てきたムカデやゴキブリ、様々な微生物、岩や砂などなど、ベテランの方々の発言を拝聴しよう。当然、同じ言葉を持ってはいないので、こちらから「連帯」する意識を持って近寄ること。共生とか共存よりも、もっと強い構え。実際、昔の人たちの叡智というのは、動植物や岩との対話から編み出されたものだと思う。五大石橋も石の声を聞きながら造られたものなのだから。今年のアカデミー作品賞受賞作品「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」でも石にまつわる印象的なシーンがあって、私は不意を突かれて泣いてしまった。

  先ほどの某施設跡地の問題も、市民の声を聞くのではなく、人類は一歩下がって「生態系側が何を求めているのか静かに観察する」という姿勢が大切なんだと思う。最低限の自然に還す道筋を整えた後、放置しておくのだ。仮に、カニが住み着いてカニの楽園が形成されるとしよう。公募をする訳でもなく、「カニ広場」という愛称が市民に染み渡っていく、そして、自然とみんなが集うような場所に成長すればいいのではないのか。いや、成長という言葉も人間目線なので適切ではない。長期的な視野、途方もない時間がかかるかも知れないが、短期的な収益が見込める開発よりも、ずっと品がいい。

 ここで、私は「境界線のない世界」を想像したい。「地球における人類の役割」を限りなく少なくすること、人類から降りて他の生命に叡智を預けるという感覚だ。境界線にはろくなことがない。国境をめぐる紛争は言うまでもなく、食物や動物も分類する必要はない。植物も痛みを感じている。また、人工知能を一つの生命と捉えて人類の叡智を預けることも、境界線をなくす一つの姿なのかも知れない。この点については、今世間がChatGPTの台頭に大騒ぎしているし、自分の職業も危うくなっているので、機会があればあらためて考察してみたい。人間の無駄な活動が少なくなれば、それなりに地球の体力も回復するだろう、という楽観的解釈だ。

 我が家の玄関や風呂には、夏場になるとカニが出没する。カニと暮らしている実感があるし、カニ人間になってしまうかも知れないと思うこともある。このような光景は鹿児島市の中心部でも当たり前になってほしい。
 

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