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地域で楽しく過ごすためのゼミ 22年2月

2022年2月28日、地域で楽しく過ごすためのゼミが開かれました。

今回の課題図書は『幸福の「資本」論』(著:橘玲 2017年 ダイヤモンド社)です。担当は大浪です。
この文章では、実際にゼミで使用した要約文章を掲載します。

〈以下要約〉

<課題図書選定理由>

前回のゼミにて「幸福」というキーワードが出てきた為、幸福について考察している本が良いのではないかと考えた。本ゼミのテーマは地方創生であるが、それを語るにあたり地方で生きる人間の「幸福」は切り離せない関係にある。本書はアカデミックではなくライトな部類の書籍であるが、「幸福」という主観的な題材を扱うにはそれくらいが丁度いいのではと思い、本書を選定した。

<主題>

 本書の主題は「幸福」を建築物としての家に例え、それを建てるために必要な「土台」についてである。「土台」構成する要素として3つの条件を挙げ、其々に対応した3つの資本とインフラについて解説している。

<論旨展開>

本書の章立てと基本的な展開は以下の通り。

プロローグ
作者のお気持ち表明。
パート0 「お金持ち」「貧乏人」の三位一体幸福論
3つの資本とインフラの解説。その組み合わせによる8つの「土台」パターンを提示。
パート1 自由のための金融資産
3つの資本のインフラひとつ、金融資産について。
パート2 自己実現のための人的資本
3つの資本のインフラひとつ、人的資本について。
パート3 幸福のための社会資本
3つの資本のインフラひとつ、社会資本について。
エピローグ
 幸福になることの難しさ。作者のお気持ち表明。

各節要約

プロローグ

今の時代の日本に生まれたことが最大の幸である。ひとは幸福になるために生きているけれど、幸福になるようにデザインされているわけではない。
「金融資産」「人的資本」「社会資本」という3つの資本=資産から、「幸福に生きるための土台」の設計を提案する。

パート0  「お金持ち」「貧乏人」三位一体幸福論

チャプター1 幸福の3つのインフラ

 「幸福」は「土台」の上に正しく設計すべきものである。「土台」は「幸福の条件」と言い換えることもできる。

 まず、「土台」を「設計できるもの」と「設計できないもの」に分けてみる。実際には「設計できないもの」=「運命」=あらかじめ与えられた環境として受け入れた上で、人生を設計していくしかない。だが、科学技術の進歩によって「設計できないもの」は減ってきている。

 「設計できるもの」について考えてみる。幸福の条件として、①自由、②自己実現、③共同体=絆の3つ挙げる。それぞれに対応したインフラとして、①=金融資産、②人的資本、③社会資本がある。この3つの資本によって「土台」が決まる。そこにどのような「幸福」を建てるかは、各人の価値観にもとづいて決める。

 金融資産を蓄積するには、どうやって資金調達し、どこにその資金を投資するかが重要である。資金調達も大事だが、それ以上に重要なのは資本をどのように運用するか。

 人的資本とは自らの労働力を労働市場に「投資」して給与や報酬という「富」を得ることである。しかし人的資本の活用、すなわち「仕事」から得られるものをすべて金銭に還元することはできない。現代社会において、仕事を通じた「自己実現」こそが幸福の条件になっているからだ。

 社会資本とはまわりのひとたちとの関係性から「富」を得ることである。社会資本は市場価値=金銭に換算することは不可能だが、「富を生み出すちから」、すなわち資本の側面がきわめて重要なことは明らかである。人的資本や社会資本を〝投資〟して「富」すなわち資産を手に入れているという構図は金融資産と変わらない。

チャプター2 「最貧困」から人生を考える

 『最貧困女子』(鈴木大介 著 幻冬舎新書) によれば、リア充とは、ネット上だけでなく現実も充実している若者を指す。プア充とは、貧困ラインを大きく下回る年収100~150万円の地方の若者のことだ。プア充は「生活がキツい」と感じることはあっても自分が「貧しい」とは思わない。客観的な基準ではプアでも主観的には充実しているひとたちがいることは不思議でもなんでもない。乏しい収入を人的ネットワーク(社会資本)で補うのは、東南アジアなど貧しい国ではごく当たり前だからだ。彼らは「資本」が社会資本に大きく偏っている。

 プア充の存在は素晴らしいが、誰もがそのネットワークに入れるわけではない。ネットワークへの参加資格に(暗黙の)高いハードルがあるからだ。それ故に内部の結束が高まっている。そうすると、どこにも所属出来ない層が一定数発生する。

 プア充にも属せない、殆ど「資本」を持たない状態を「貧困」と定義する。昔は「若い女性」という人的資本を水商売や風俗でマネタイズできたが、2000年あたりを境に供給過多からデフレ化が進んだ。

 例えば、地方出身で実家が貧しい女子大生は、最初は家庭教師や塾の講師などで生活費を賄おうとする。彼女たちは、それでは学業と両立できないことを悟って、より短時間で高収入が得られる風俗に〝転職〟する。

 風俗業界に入る事すら出来ない「最貧困女子」が存在する。彼女たちの境遇には精神障害、発達障害、知的障害の3つの障害が関係している。最貧困女子が社会資本を失ったのは、「3つの障害」によって付き合うのが面倒くさいからである。それは、プア充のような地元ネットワークからも排除される原因となっている。現在、彼女たちのセイフティネットは福祉団体やNGOではなく、ヤクザやブローカー、売春業者などが提供している。

チャプター3 人生の8つパターン

 ひとは金融資本、人的資本、社会資本を「運用」することで〝富〟を得ており、この3つの合計が一定値を超えていれば、自身を「貧困」とは意識しない。3つ全てを失った状態が「貧困」である。
 3つの組み合わせにより、8つのパターンがある。

・超充 3つ全て持っている
・リア充 人的資本と社会資本
・お金持ち 人的資本と金融資産
・旦那 社会資本と金融資産
・ソロ充 人的資本のみ
・プア充 社会資本のみ
・退職者 金融資産のみ
・貧困 3つ全て持っていない

 幸福をインプットとアウトプットから考えてみる。各人が「幸福の製造装置」持っており、得られる幸福(アウトプット)はインプットの量・質と装置の変換効率によって決まる。インプット=金融資産・人的資本・社会資本である。

 人的資本と社会資本は量より質が重要で、変換効率は各人によって異なりブラックボックスである。当然ながら、インプット=金融資産・人的資本・社会資本がゼロであればアウトプットもゼロである。また、資本を一つしか持っていないと、貧困に陥るリスクが高い。

 重要なのは、人生を「金融資産」「人的資本」「社会資本」という3つの資本=資産で把握することである。これにより、幸福というとらえがたいものにある程度かたちを与え、現実的な戦略を考えることができるようになる。本書の基本的なアイデアである。

パート1 自由のための金融資産

チャプター4 お金と幸福の関係

 金融資産を考えるうえでもっとも重要なのは「経済的独立」である。「自由」とは「誰にも、何ものにも隷属しない状態」で、経済的な意味で定義するならば、「国家にも、会社にも、家族にも依存せず、自由に生きるのにじゅうぶんな資産を持つこと」だ。これが「経済的独立」で、このような考え方が「市場原理主義」である。

 経済的独立を達成せずに高齢者になってから、年金等の権力に隷属せずにいられるだろうか?これが「市場原理主義者」からの問いである。大半の人は、人生の様々な場面で同様の選択を迫られ、多くの場合「自由」ではなく「隷属」を選ばざるを得ない。

 70年代アメリカの調査では、金持ちは高級住宅地の豪邸ではなく庶民の隣に住んでいることがわかった。アメリカの億万長者の絶対数は、「支配層」であるWASP(ホワイト、アングロサクソン、プロテスタント)が最も多いが、人口比では4位である。出身国で見た場合、ロシア・スコットランド・ハンガリーからの移民が上位で、その多くは第一世代であった。

 このように、欧米や日本のような豊かな社会では、勤勉と倹約が必要だが特別な才能が無くても、誰もが経済的独立は達成できる。しかし、努力だけでお金持ちになれるのなら、貧乏は社会制度の矛盾や陰謀によるものではなく、自己責任ということになる極めて残酷な事実である。

 徹底した勤勉と倹約が幸福な人生をもたらすとは限らず、65歳でミリオネアになったとしても残りの人生はそう長くない。特に、サラリーマンの給与体系ではミリオネアの夢は退職金を受け取るまで待たなければならない。それより早く経済的独立を達成する為には、なんらかの「近道」が必要だ。

 大卒サラリーマンの生涯収入は3~4億円とされている。所得税・住民税に加えて社会保険料・社会保険料の会社負担分を計算すると、支払う税金は約1億円である。だが、マイクロ法人を設立して「個人」と「法人」の2つの人格を使い分ければ、税負担を大きく軽減できる。

 飲食物の最初の1口が一番美味しく感じ、2口目以降美味しさが逓減していくことを「限界効用の逓減」という。お金の場合、日本では年収800万(世帯年収1500万)を超えると幸福度は殆ど上昇しなくなる。また、アメリカと日本で幸福度が一定になる金額は殆ど変わらない。「お金は幸福になる最も確実な方法」といえる。しかしお金のことを考えすぎると不幸になる。それは経営者達だけでなく、貧困層も常にお金のことを切実に考えている事実がある。

 収入だけでなく資産に於いても限界効用が逓減する。お金と幸福度のアンケート調査では、金融資産が1億円を超えると幸福度が増えなくなる。老後が安心だと思える金額が1億円ということだろう。いったんお金から「自由」になると、それ以上収入が増えても幸福度は変わらなくなる

以上のことから、お金と幸福に関する以下の法則が導き出せる。
①     年収800万円(世帯年収1500万円)までは、収入が増えるほど幸福度は増す。
②     金融資産1億円までは、資産の額が増えるほど幸福度は増す。
③     収入と資産が一定額を超えると幸福度は変わらなくなる。

チャプター5 マイナス金利の世界

 全ての富は差異から生まれる。また、市場は「複雑系」である。単純なルールから複雑なネットワークを自己組織化していくのが「複雑系」だ。そして「複雑系」こそが世界の基本原理である。

 「複雑系」はルールが極めて単純でも、多数のプレイヤー(要素)同士が相互に影響しあう為、その結果が予測不可能である。これが株式投資に必勝法がない理由だ。しかし1980年代までに金融理論は発展しきった。それは金融ビジネスにおけるイノベーションの枯渇を意味する。

 資本主義=資本市場とは「株式会社によって自己組織化した複雑系のネットワーク」である。経済成長とは突き詰めて考えれば、人々の欲望が原動力で、人口の増加や新興国等が市場に参入することで自己増殖していく。資本主義は人間の欲望によって自己増殖していくシステムなのだ。しかし、ここにきて利益の自己増殖システムがうまく機能しなくなってきた。それが「マイナス金利」である。

 「マイナス金利」であろうとも、長期的には市場経済は今後も拡大し成長していく。では「長期的」とはどの程度のスパンを言うのか。ゼロ金利やマイナス金利というのは、投資家が株や不動産にはお金を投じる価値がないと考えている証拠である。それは、金融資産から生まれる富がやせほそっていくこととも言える。金融資産の価値が減るということは、相対的にその他の資本=資産の重要度が増していくということだ。つまり、人生を支える「土台」のなかで金融資産の比重が以前より軽くなってきたこということである。マイナス金利の世界では、賢いひとは利潤を最大化するために金融資本よりも人的資本を有効活用する、すなわち「働く」。

 借金大国日本は破綻必至で、ハイパーインフレによって円は紙くずになるのではないかという懸念がある。しかし、金融資産は普通預金とドルやユーロなどの外貨預金に分散しておけばよい。全ての通貨が一斉に下がることは無いからだ。適切に資産を国際分散しておけば、全体の資産価値は影響を受けない。

パート2 自己実現のための人的資本

チャプター6 人的資本は「富の源泉」

 お金持ちになる方法は「収入を増やす」、「支出を減らす」、「資産を上手に運用する」の3つがある。方程式として表すと「富=収入-支出+(資産×運用利回り)」となる。この中の「(資産×運用利回り)」が人生の土台における金融資産である。しかしゼロ金利の世界では「お金が働いてくれない」。そこで、「収入を増やす」と「支出を減らす」が重要となってくる。

 「収入を増やす」はどうしていいかわからないが、「支出を減らす」=「節約」は「誰でも今日からすぐに始められて、努力すれば必ず効果がある」。同じ効用を持つのがダイエットである。ダイエットの本質は「努力は必ず報われる」と「しばしば誘惑に負けてしまう」の2つの要素の対立だ。ダイエットで幸福感が得られるのなら、ダイエットと同様に節約によっても「自己実現」することができる。

 問題は、いくら節約してもお金は貯まらないことである。その理由は、節約に過剰な意味を持たせているからだ。お金持ちはケチが多い。それは、倹約しなければお金は貯まらないことを意味する。そしてお金持ちは節約で自己実現しようとは考えない。同じ結果を得られるのなら、安ければ安いほど良いと考えているだけである。

 お金持ちに共通するのは、コストパフォーマンスに敏感で経済的に不合理なことに強い嫌悪感を持つことである。そしてお金持ちのように経済合理的に行動すれば、努力などしなくても自然と倹約することになる。だが倹約だけでは十分なお金は貯まらない。残念ながらお金持ちの方程式で最も重要なのは収入なのだ。

 人は誰もが「人的資本」を持っており、それを労働市場に投資して日々の糧となる収益(給料)を得ている。「労働」は人的資本の投資と回収として経済学の枠組みで説明できる。労働市場が効率的であれば、人的資本の投資はリスク調整後のリターンが同じになるよう裁定が働く。理論的には、終身雇用で安定した収益を得られる仕事=ローリスク・ローリターン、成果報酬の仕事=ハイリスク・ハイリターンとなる。欧米の雇用制度はこの理論と整合的だ。しかし日本では正社員は「身分」である。"一流企業"に新卒で採用されれば生涯にわたって高給が保証される=つまりローリスク・ミドルリターンが手に入ると信じられている。これが、労働市場を大きく歪めている。

 社会人になったばかりの若者の人的資本は約5500万円である。つまり最も重要な「富の源泉」は人的資本である。そして人的資本は投資の損失がない。先進国に生を受けた時点で大きな人的資本を持っているのである。

 金融取引は「利益は大きければ大きい程い良い」、「同じ利益ならリスクの小さい方が良い」という2つのルールがる。そして人的資本については、「収入は多ければ多い程良い」、「同じ収入なら安定していた方が良い」、「同じ収入なら(或いは収入が少なくても)自己実現できる仕事が良い」という3つのルールがある。ハーバード・ビジネススクールでMBAを取得した卒業生は、競争の激しいウォール街を目指す。彼らはなぜ利益率の高い風俗業等をしないのか。それは"汚れ仕事"とされる分野で成功しても自己実現できないからだ。

 「自己実現」とは以下の4つの欲求を満たしたのちに現れてくるとされる。

・衣食住のような根源的・生理的欲求
・安全な暮らし
・家族や周囲から受け入れられているという感覚
・他者からの承認

「自己実現」は「共同体=社会資本」と密接に関係している。それはヒトが社会的な生き物だからだ。

 お金の本質は幻想である。しかし共同幻想になるまで共有される事で「現実」となった。そして「自己実現」のような広く流布した価値観にも、同様の構造が見られる。人は無意識のうちに「働くこと」に対して次の2つの目標を設定している。それは「人的資本からより多くの富を手に入れる」、「人的資本を使って自己実現する」だ。これを同時に叶えるのが「理想の働き方」である。

チャプター7 クリエイティブクラスとマックジョブ

 新しい働き方を理解するには次の3つのキーワードがある。それは「知識社会化」、「グローバル化」、「リベラル化」である。

 インターネットビジネスは勝者総取りという厳しい競争環境で行われている。ライバルに決定的なイノベーションを先取りされてしまえば、大企業でも直ぐに衰退してしまう。そこでは他者に先んじて優秀な人材を雇い入れることが重要だ。純化した知識ビジネスにおいては、イノベーションは高い知能を持った人間にしか生み出せない。結果として、能力(知能)以外全ての差異を問題とせず採用する会社が生まれ、そのような会社は「リベラル」と呼ばれる。そして、知識社会はグローバル化と一体となって進んでゆく。

 知識社会は、仕事に必要とされる知能のハードルが上がり、知能の高い人がアドバンテージを持つ社会である。すると脱落者が増え、「中流の崩壊」を進め、彼らの怒りが社会の保守化=右傾化を招く。

 日本企業がなぜ世界競争から脱落したか。「本社採用」「現地採用」といった日本的雇用制度では、国籍の異なる人材を平等に扱えず、「差別」が露骨となり外国人社員が魅力を感じない。結果として人材獲得競争で負け続ける。だが、知識社会化は加速度的に進んでいく。企業であれ、個人であれ、知識社会に適応できなければ脱落するだけだ。私たちは、知識化社会に適応できない「日本の会社」の外側で自らの人的資本を育てるほかない。

 21世紀の仕事はクリエイティブクラスとマックジョブに二極化する。正確には次の3つに分かれる。ルーティンプロダクション(定型的生産)サービス、インパーソン(対人)サービス、シンボリックアナリスト(シンボル分析的)サービスである。そしてグローバルな競争によって次のことがおこる。ひとつは、「繰り返しの単純作業」に従事する労働者の収入は新興国の労働者の収入に収束すること、もうひとつは、対人サービス業も移民の流入によって低所得を受け入れざるを得なくなることである。その結果、内と外からの二重のグローバル化によって中流層は豊かさを失うことになる。

 マックジョブとは、マクドナルドのようなマニュアル化された仕事のことである。それには事務職の他、日本的ものづくりの現場も含まれる。クリエイティブクラスとは、「仕事の価値が自給換算できない仕事」である。そこには「拡張可能な仕事」と「拡張不可能な仕事」がある。

 拡張性のない仕事は「月並みの国」、拡張性のある仕事は「果ての国」と呼ばれる。「月並みの国」では平均値の周辺に大半の人が集まり、変わったことは起こらない。「果ての国」では複雑系でいうロングテール(べき分布)で、殆どのことは平均付近で起こるが、分布の裾野が長く伸びているため極端な事がおこる。クリエイティブクラスの仕事のなかにも、拡張性のないものはある(弁護士や会計士 、医師)。平均的な収入は高いが、収入の上限があるため月並みの国の仕事である。

 マックジョブはマニュアル化された拡張不可能な仕事で、責任はないが達成感もない。スペシャリストはクリエイティブクラスの中で拡張不可能な仕事に従事する人で、責任は大きいが平均して高い収入を期待できる。クリエイターはクリエイティブクラスのなかで拡張可能な仕事に挑戦する人で、当たれば大きな富を手にすることができるが、大半は鳴かず飛ばずである。若者は果ての国での拡張可能な(夢のある)仕事に魅力を感じるだろうが、ブラックスワンに出会えるのはごく一部だ。

 仕事観は大きく以下の3つに当てはまる。
 ・働き方を「労働とみなす」=マックジョブ
 ・働き方を「キャリアとみなす」=スペシャリスト
 ・働き方を「天職とみなす」=クリエイター

 マックジョブに意義を見出す人の幸福度は高いことから、マックジョブでも自己実現は可能である。だが、経営者は自己実現を利用して労働者のやりがいを搾取できる。

チャプター8 サラリーマンという生き方

 日本の会社が求めているものは、社員の「能力」ではなく「組織のなかで働けるか」。そして魅力ある個性や突出した能力と、幸福な仕事人生は必ずしも相関関係にない。

 欧米の人事システムは「ジョブ型」である。ジョブ(職務)を基準に仕事が成り立っており、スペシャリストの組み合わせで出来た組織だ。同じ能力であれば安く働く労働者を雇い、新興国に安い労働者が集まっていれば工場ごと移転する。

 日本の人事システムは「メンバーシップ型」である。メンバーを中心に仕事が成り立って(会員制組織)おり、正会員(正社員)と非会員(非正規社員)の身分が厳密に定められている。また、正会員にはあらゆるジョブ(職務)に対応できる能力が求められ、能力は特定の会社に特化しているため汎用性がない。

 ジョブ型は「開放系」で、メンバーシップ型は「閉鎖系」である。「開放系」=ポジティブ評価の空間をバザール、「閉鎖系」=ネガティブ評価の空間を伽藍としてみる。

 伽藍は閉鎖系で、ネガティブゲームである。悪評はずっとついてまわり、「出来るだけ目立たず、匿名性の鎧を身にまとって悪評を避けること」が最適解となる。

 バザールは解放系で、ポジティブゲームである。退出すると悪評も良い評判もリセットされるため、悪評を相手に押し付けても意味がない。そして、良い評判を得た業者は居続ける。「出来るだけ目立って、沢山の良い評判を獲得すること」が最適解となる。

 日本の会社は伽藍になっている。40代半ばからは再就職が難しく、経済合理的判断から会社に監禁されることを望むようになる社会となっている。「学習性無力感」の実験では、監禁された状態で長期にわたって苦痛に晒されると、こころに重大な損傷を被ることがわかった。伽藍空間である日本の会社は、この条件を満たしやすい。

 長時間労働はうつ病の原因ではない。仕事に対して自分の能力が見合っていないことが原因である。そして本人は無意識かもしれないが、この「不都合な事実」を認める事を拒絶している。

 大卒新入社員は、大学時代の成績は考慮されず、なんのビジネススキルも無い状態で各部署に配属される。そして、新入社員はそれぞれの「伽藍」に最適化された汎用的社員になることを要請される。そのような環境では「プロフェッショナル」は生まれてこない。

 知識社会化が進むに従って、仕事に要求されるプロフェッションのレベルは上がってゆく。しかし、日本の会社は汎用的社員で構成されており、プロフェッショナルを養成する仕組みを持っていない。つまり年功序列・終身雇用の日本企業では、責任者を外部から招いたり中途入社のスタッフだけでチームを作れない。

 クリエイターはサラリーマンにならない。会社はクリエイターに青天井の報酬を貰えず、また利益を生まないクリエイターを養えないからだ。

 スペシャリストに適した働き方は自営業である。だが、スペシャリストの中でも日本の医師は事情が違う。欧米の医師は指名制で、病院は医師からテナント料をもらうが、日本の医師は異動しても患者は病院に残る。日本は医師個人に客がついていないのである。

 日本の会社ではスペシャリストとバックオフィスの仕事が一体化している。つまり、スペシャリストとマックジョブが同じに扱われている。彼らを同じ基準で働かせたり評価することはできない。結果として、スペシャリストは会社を辞めていき、汎用的社員が残り蓄積していく。すると会社はバックオフィスを正社員から非正規雇用に置き換える。正社員は実質解雇できないように守られているからだ。現代では既に日本の会社にスペシャリストはいない状態である。

 1980年代後半から1990はじめの仕事満足度日米比較調査では、仕事の満足度や愛着は日本が著しく低かった。また、社員の会社への忠誠心を示す指数も先進国で日本が最も低い。そのうえ日本は労働生産性が低い。ブラック企業は低成長に苦しむ日本経済が生み出した経営イノベーションとも言える。

 それでも「若者」は優遇されている。少子高齢化社会では、若者の希少性が増して価値が高くなるからだ。実際大手では「子会社出向」等で厚遇している。日本的雇用のメリットは、新卒一括採用によって若年層の失業率が低いことだ。そして、多くの若者は職業教育が行われないまま就職する。そう考えると、日本型のOJTは「自分探し」にとって有効な方法になりえる。デメリットは、「適職」を見つけても異動させられることと、35歳を過ぎると人生の選択肢は急激に減っていき、殆どのサラリーマンが年齢とともに行き詰まる。40歳を過ぎて「サラリーマンとしての人生」に疑問を持っても遅いのである。

チャプター9 オンリーワンでナンバーワンの戦略

 バイオリン専攻の学生を優秀な順にS・A・Bランクにわけたところ、18歳までに練習に費やした時間はSランクが圧倒的に多かった。そして、上位ランクは練習時間の大半を個人練習にあてていた。このことから、能力の高い人間は個人学習を好む傾向にあることが見てとれる。人間の本性は「やればできる」ではなく「やってもできない」であり、人は「好きなことしか熱中できない」のである。

 スペシャリストになるには、「目立つこと」や「他者から評価されること」を求めるには、好きなことに人的資本の全てを投入する必要がある。同様にプロフェッションを獲得するには、仕事の中で好きなことを見つけ、そこに時間とエネルギーを投入する必要がある。

 生物の世界の法則ではナンバーワンしか生きられない。2種類のゾウリムシを同じ水槽で飼うと、豊かな環境でも片方は全滅する。しかし、同じ水槽でも住んでいる世界が異なると共存できる。棲む場所を「ずらす」ことで競争を回避し、自分だけのニッチを確保しているのだ。そして、ニッチがあれば必ずそれを埋めるものが現れる。自然界では全ての生き物がオンリーワンでナンバーワンなのだ。

 大企業がシェアを拡大する簡単な方法は、中小企業を模倣して彼らが開拓した新しいマーケットを奪うことだ。そして弱者には次の3つの戦略がある。

・小さな土俵で勝負する。強者には侵略できるニッチに「小ささ」という限界がある。
・複雑さを味方につける。ルールがシンプルなゲームは強者に有利になってしまう。
・変化を好む。変化の激しい環境ほど弱者にはチャンスがある。

 なぜ会社が存在するのか。それは分業した方が効率はいいからだ。ではなぜ全ての仕事が大会社によって行われないのか。組織はどのように、自らの内部に留まるべきものと、市場で取引すべきものを決定するのか。組織は効率を最大化できる方を選び、決定している。

 組織による分業は効率的だが、それが常に市場の効率性を上回るわけではない。あらゆる取引には、モノの価格以外の様々なコストが上乗せされている。これを「取引コスト」と呼ぶ。取引コストは組織が複雑になるほど幾何級数的に大きくなっていく。

 企業が生き残るためにはイノベーションが不可欠といわれるが、現実には様々なサービスや商品が定型化されている。組織に於いては、「標準化はコスト減、カスタマイズはコスト増」である。つまり利潤の最大化を目指す経営者は、イノベーションを抑圧し、あらゆる業務を標準化する。また管理主義と革新性はトレードオフで、両立は極めて困難だ。

 画期的なイノベーションを生み出すには、積極的にリスクを取らなくてはならない。しかし日本的雇用制度で、社員は「リスクを取るのは馬鹿馬鹿しい」と考えている。解決策は次の2つである。ひとつは、経営者自らが大きなリスクを取ってイノベーションを目指すことだが、日本の会社での社長は「正社員の代表」で、使命は「社員共同体の維持」なので難しい。もうひとつは、イノベーションをアウトソース(外注化)することである。ベンチャーに投資し成果が出れば買収といったように、リスクを外注して成長を維持しようするのである。

 最近ではプロフェッショナルが組織に対して優位性を持つようになってきている。ではどうすれば「収益の最大化」と「自己実現」を両立できるか。答えのひとつは、好きなことに人的資本の全てを投入する、好きなことをマネタイズできるニッチを見つける、官僚化した組織との取引から収益を獲得する、である。

チャプター10 超高齢社会の唯一の戦略

 老後の人生設計で大事なことは自分の平均余命を知ることだ。平均余命でみれば、平均寿命より長生きしてしまう。問題は、歳をとってもなかなか死なないことである。

 「老後問題」とは老後が長すぎることで、「老後」とは「人的資本を全て失った状態」のことだ。人的資本を維持していれば、老後は自らの意思で長くも短くもできる。老後の経済的な不安を解消する簡単な方法は、老後を短くすることである。生涯現役ならば、老後問題そのものが無くなる。そして人的資本を長く維持するには「好きを仕事にする」が重要となってくる。

パート3 幸福のための社会資本

チャプター11 友だちとはなんだろう

 社会資本は数値化が極めて困難である。しかし、「幸福」は社会資本からしか生まれない。進化論が正しいのならば、「幸福」という感情は進化論的合理性の産物であるはずだ。

 人間関係は「愛情空間」、「友情空間」、「貨幣空間」の3つの空間に分けられる。また、「愛情空間」と「友情空間」は「政治空間」としてもまとめることができる。

 「愛情空間」は最も大切な家族や恋人等との関係で、「友情空間」は愛情空間のまわりにある、親しい友達等との関係である。「政治空間」は友情空間のまわりに存在し、友達ではないが他人でもない上司や部下等の関係を含む。そして、政治空間のまわりには「他人」の世界が広がっている。

 私たちの世界は市場によって覆われていて、貨幣を介して繋がっている。しかし、愛情空間は2人から5人程の小さな人間関係だが、人生の価値の大半を占めてしまう。そして、貨幣空間の範囲は無限大だが、人生における価値は極めて小さい。愛情空間、友情空間、貨幣空間は大きさと価値が指数関数的に逆比例しているのだ。

 日本の社会における「友だち」とは、偶然から生まれる人間関係である。それは、時間軸だけでなく空間的にも排他的な人間関係で、異なる友だち関係はお互いを排除し合う。友だち関係の核にあるものは「平等体験」だ。同じクラスや同期だと友情が生まれやすいのが好例である。そして、「平等体験」が重要なら正社員と非正規社員の「身分差別」を無くすことは難しい。

 政治空間と貨幣空間には対立がある。お金は愛情や友情を破壊することがあり、世間には「愛情や友情に金銭が関与してはならない」という暗黙のルールがある。

 人類には権力ゲームと市場ゲームの2種類の相違のモラル体系ある。権力ゲームの目的は、集団の中で一番になることor異なる集団の中で自分の集団を一番にするこだ。行われるフィールドは政治空間で、勝者総取りの世界である。市場ゲームの目的は、与えられた条件の中で最も効率的に貨幣を増やすことだ。行われるフィールドは貨幣空間で、一番でなくともそこそこの地位にいれば満足できる世界である。

 政治空間は階層構造を持ち、政治空間は敵を殺して権力を獲得するパワーゲームである。そして貨幣空間は競争しつつも契約を尊重し、相手を信頼するゲームだ。貨幣空間は「正直」「契約の尊重」「見知らぬ他人との協力」のシンプルなルールで構成されている。また、その原理に則れば貨幣空間は原理的には暴力を排除する。

 相手から富を獲得する手段は「相手から奪う(権力ゲーム)」と「交易する(市場ゲーム)」の2つがある。2つのゲームは社会を成り立たせる大切な仕組みである。しかし、2つが混じり合うと社会の根幹は腐っていく。

 現実には政治空間と貨幣空間を厳密に切り分けることはできない。市場を管理する政府も、市場の主役である会社も典型的な政治空間だからだ。また、個人の人生においても、金融資産(貨幣空間)と社会資本(政治空間)は両立不可能である。

チャプター12 個人と間人

 個人は「分類」や「論理」を重要視する人で、間人は「人間関係」や「集団」を重要視する人である。個人である西洋人は世界を名詞の集合と考え、間人である東洋人は世界を動詞で把握する。個人は「かけがえのない自分」を認識し、間人は「共同体の中の自分」を認識している。

 日本とアメリカでは、責任と権限についての考え方が違う。アメリカ人は責任と権限は1対1で対応していると考え、日本人は責任や権限が曖昧なので、”ひと”と”ひと”として対等な関係と考える。

 上記のように欧米人は「個人主義」日本人は「間人主義」とされてきた。しかし西洋人と東洋人は明らかに違うが、その違いは文化的なものだった。例えば、アメリカで暮らす日本人はたちまち個人主義に順応するし、1990年代に欧米企業は製造業を中心に急速な”日本化”が進んだ。

 アメリカでも親密な人間関係は、伝統的な共同体では当たり前のものだった。企業労働とは報酬を対価とした経営者との契約の履行と考えられてきて、「自分は自分の担当の仕事をやる。他の人のことを考える必要はない」という個人主義的価値観が主流だった。しかし、「仕事は次の担当者のことを考えて遂行すべきもの」という間人主義的な仕事観が持ち込まれ、定説では1990年代後半以降アメリカの労働時間は日本人の労働時間を超えたとされている。

 アメリカ人が「日本的経営」を体験するとどうなるか。仕事をお互いにチェックし監視し合うようになり、直接の監視や叱責・非難が無くても労働者が自分自身の内面から仕事に責任持つようになったのだ。そして、個人主義的な働き方をしている人には、間人主義的な働き方をしている人がカルト宗教か何かに洗脳されたように見えた。

 「日本的経営」は「ストレスによる管理」として、批判的によく取り上げられる。しかし、ある種の労働現場では日本的経営の方が生産性が高い。それは、製造業やレストラン、物販、看護等広範にわたる。

 マックジョブの仕事は、欧米においても日本的経営の「間人の世界」になりつつある。チームワークを導入した方が従業員満足度も高く、労働生産性も上がる。日本ではアルバイトまでがSNSで”自主管理”するようになってきている。個人主義的な働き方に自己実現はないが、マックジョブに間人主義的な働き方をさせると「幸福」を感じるようになる。しかし代償として、労働現場が「やりがいの搾取」の場と化す。日本的雇用が提供する「間人の幸福」は長時間労働や過労死とセットになっている。

 「自己決定権」が強いことが幸福感に結び付く。時代の流れとともに「間人の幸福」は古くなり、自己決定権を持つ「個人の幸福」へ価値観がシフトした。しかし日本の社会が旧態依然とし変わっていないのが現状である。

チャプター13 うつは日本の風土病なのか

 セロトニンという脳内の重要な神経伝達物質がある。これは、気分の安定に重要な働きをする。日本人はうつ病が多いとされているが、うつになりやすい性格「メランコリー親和型」というものがある。これには「真面目」「几帳面」「責任感が強い」「周囲の目を気にする」等の特徴があり、典型的な日本人とも評される。日本人の性格はなぜうつ病に親和的なのか。それは、遺伝的に脳内のセロトニンが少ないからとされてきた。

 セロトニンにはS型とL型がある。この組み合わせで「SS」「SL」「LL」の3つの遺伝子型が決まる。LL型はポジティブな性格で、SS,SLはネガティブな性格とされる。そしてセロトニン運搬遺伝子の型は人種によって大きく異なる。アフリカ人にはLL型が多く、白人、アジア系と少なくなる。日本人はS型の保有率が欧米人に比べて5割多く、LL型保有率が3%と世界で最も少ない。そしてSS,SL型遺伝子は、ストレスの高い状態と結びつくことでうつ病など有害な結果を引き起こす。また、SS型はハイリスク・ハイリターンな選択を避ける傾向にある。

 進化の過程ではL型の遺伝子が先にあり、その後S型の遺伝子が登場したと考えられている。ではヒトはうつ病になるように進化したのか。調査をしてみると、最も楽観的な性格の人の中にSL型がいた。また、SL型の遺伝子を持つ人は、LL型の遺伝子を持つ人より楽観の度合いが高かった。そして最も楽観的傾向が強いのはSS型の人だった。SS型はストレスによってうつ状態になりやすい脆弱性を持つが、最も楽観的だったのだ。つまりSS型の人達は、ネガティブなことと同様にポジティブなことにも敏感に反応する。

 SS型が「うつ病の遺伝子型」というのは偏見で、LL型は「鈍感」なのであった。人間の進化の歴史の中で、閉鎖的な共同体での人間関係に適応するためにS型遺伝子が役に立った。その結果、狩猟生活では有り得ない大きな共同体を維持することが可能になった。

 日本人は他人から嫌われることを極端に恐れる。それは、環境に対して敏感に反応する遺伝子型によってもたらされている。会社は嫌いだが、会社無しでは生きていけないのが日本人の性だ。日本人は自分に適した環境に身を置くことで、”鈍感”な人にはない幸福を手に入れることができるかもしれない。そして私たちは、日本人の遺伝的特徴を前提として自分の人生を設計しなければならない。

チャプター14 幸福になれるフリーエージェント戦略

 人間関係には家族や友人等の強いつながりと、知り合い程度の弱いつながりがある。そして弱いつながりしかない友人は、異なる世界に暮らしていることが多い。彼らは新しい可能性を教えてくれる。

 伝統的社会は政治空間で出来上がっている。そして長い歴史の中で、我々は権力ゲームに習熟している。だが都市部に人が集まり社会が豊かになると、権力ゲームが煩わしくなる。一方、貨幣空間はシンプルで楽である。近年では貨幣空間が日常生活まで広がったことで、弱いつながりは貨幣を介さなくても成立するようになった。日本人の世俗的な性質に、貨幣空間のシンプルな関係が侵食してきている。それには、インターネットやSNSによる時代の変化が関係している。

 人のつながりはハブとスポークによるネットワーク構造である。そして異なる友だちグループは基本的に交わらない。また、友だちグループの中で、他の友だちグループと交渉を持つのは一人だけである。この特権的なメンバーは、通常はグループのリーダーだ。そしてグループ同士はリーダー同士が繋がって緩やかな輪を構成する。

 集団ヒステリーに代表されるように、ヒトのネットワークは些細なきっかけで感情を「伝染」させる。同じように「幸福」や「不幸」も「伝染」する。私たちは、意識のレベルでは他人と違うことをしたいと思っていても、無意識では群衆に合わせている。また、感情的に強くつながっている(家族等)では、伝染効果は高くなる傾向にある。

 私たちは、自身の幸福に貢献してくれる人達はどこに住んでいるかを考慮すべきである。そして、相手の幸福度によって「友だちのポートフォリオ」を最適化するべきだ。

 愛情空間(社会資本)は幸福も与えるが不幸も与える。不幸への対処法は、人間関係の面倒を厭わずに生きるか、一切の人間関係を断つかになる。究極のソロ充とは「全ての社会資本を政治空間から貨幣空間に置き換えた人達である。

 仏教における煩悩は、突き詰めれば人間関係(社会資本)から生まれる。煩悩から自由になることが「悟り」であるならば、先進国ではお金とテクノロジーによって、修行無しに誰でも「悟り」の境地に達せるようになった。しかしそれは、喜びを失うことで悲しまなくてもいい生き方である。

 人々はなぜ「ソロ充」化していくのか。一度だけの強い痛みより、弱い痛みが持続するほうが幸福度を大きく下げるからだ。そして、「困った人」と関係を持たざるを得ない状態は、幸福感を大きく毀損する。解決策は「困った人」とつき合わない選択の自由を持つことで、フリーエージェントや自営業が当てはまる。ソロ充と同じように、公務員の幸福度は高い。彼らにやりがい(自己実現)はないが、責任もなく安定している。縦軸を幸福度、横軸をやりがいと安定とした場合、グラフはU字型になっているようだ。

 アメリカに台頭する新上流階級に「BOBOS」というものがある。夫婦共に高学歴で、リベラルな都市かその郊外に住み、経済的に恵まれているが華美な暮らしを蔑視し、かといってヒッピーのように体制に反抗するわけでもない、最先端のハイテク技術に囲まれて自然で素朴なものに価値を見出すような人々は、典型的な「BOBOS」だ。彼らの多くは弁護士等の専門家であり、知的有名人等の本物のクリエイターに憧れている。彼らにとって真に価値あるものは、知的コミュニティー内での評判である。グローバルな知識社会ではソロ充やBOBOSが台頭してきている。

 組織(強いつながり)を捨てることのメリットは人間関係を選択できることで、デメリットは生活が不安定になることである。そして「ソロ充」の生き方にもろ手を挙げて賛同する人は少ない。愛情も友情も捨ててしまっては生きている意味が無いからだ。

 では凡人にとって「幸福な人生」の最適なポートフォリオとは。それはごく小さな愛情空間を核として、貨幣空間の弱いつながりで社会資本を構成することである。その上でスペシャリストやクリエイターとしての人的資本を生かし、プロジェクト単位で気に入った「仲間」と仕事をする。サラリーマンは定年退職で人的資本と社会資本の大半を失ってしまう。それならば、弱いつながりを維持しつつ、フリーエージェントとして働く「生涯現役戦略」が効果的なのだ。

チャプター15 「ほんとうの自分」はどこにいる?

 複雑な人間関係のゲームの中で、私たちは「自己実現」しようとしている。かつて流行った「自分探し」は陳腐化したが、私たちは未だに「ほんとうの自分がどこかにいる」という感覚を共有している。

「ほんとうの自分」はたしかに存在する。それは、自身の過去である。自分のキャラでない仕事等、「キャラ違い」が起きた時、ひとは「ほんとうの自分」じゃないと感じる。「ほんとうの自分」とは、幼い頃に友達グループのなかで選び取った「役割=キャラ」である。子どもの頃の自分はいつまでもこころの中に残り、「ぼくをみつけてよ」と訴え続ける。

エピローグ それでも幸福になるのは難しい

 幸福な人生への最適戦略は以下である。

・金融資産
「経済的独立」を実現すれば、金銭的な不安から解放され、自由な人生を手にすることができる。金融資産は分散投資する。

・人的資本
子どもの頃のキャラを天職とすることで、「ほんとうの自分」として自己実現できる。人的資本は好きなことに集中投資する。

・社会資本
政治空間から貨幣空間へ移ることで、人間関係を選択することができる。社会資本は小さな愛情空間と大きな貨幣空間に分散する

 このように頑健な「土台」を作った後で、それぞれが自由に「幸福な人生」という家を建てればよい。

 マイケル・ジャクソンは幸福だったのか。スタッフから見れば完璧なパフォーマンスを発揮する彼は、幼い子供のように失敗に怯えていた。そして、重度の不眠症になり体調管理が困難に、それにより不安が増し全身麻酔で眠るようになる。最終的に麻酔薬の過剰摂取で死亡した。果たしてスーパースターは幸福だったのか。映画「THIS IS IT」ではそのようには見えない。

 なぜ幸福になれないのか。それは、すべての限界効用が逓減するからである。幸福感には慣れてしまうのだ。同様に不幸も限界効用が逓減する。ひとには自分に起きたことをポジティブに考える癖がある。

 幸福は逃げ水を追いかけるようなもので、手に入れることができない。しかし、人生設計の理想のポートフォリオを手に入れれば、日々のストレスはほぼ無くなる。それは主観的には「他人よりもちょっと幸せ」程度かもしれない。

 ”ほんとうの幸福”はどこにあるのか。ある調査によると、人生に対する満足度がもっとも高いのは逆境を経験した数が中程度の人達であった。幸福な人生を目指して頑張っているときが、最も「幸福」なのかもしれない。

<感想・批判>

 本書は「幸福」になるためにはその「土台」が必要だという考えから、それを構成する要素として3つを挙げて資本とみなし、それぞれを解説している内容である。

 本書の特徴は、3つの資本の組み合わせからできる8つのパターンを挙げ、それぞれに典型的な例を挙げていることと、著者のいう「社会資本」での人間関係に「愛情空間」「友情空間」「政治空間」「貨幣空間」という分類を試みたことの2つだろう。この切り口からのアプローチは面白い遊びだと感じた。

本書の結論は、エピローグで示しているとおり以下である。

1.「幸福」なるためには「土台」が必要。
2.「土台」を構成する3要素は下記の戦略でもって達成できる。

・金融資産
「経済的独立」を実現すれば、金銭的な不安から解放され、自由な人生を手にすることができる。金融資産は分散投資する。

・人的資本
子どもの頃のキャラを天職とすることで、「ほんとうの自分」として自己実現できる。人的資本は好きなことに集中投資する。

・社会資本
政治空間から貨幣空間へ移ることで、人間関係を選択することができる。社会資本は小さな愛情空間と大きな貨幣空間に分散する。

「幸福」という曖昧で主観的なものに「土台」という概念を提示したことと、一応の解のようなものを導き出したことは評価したい。

 本書が正しいとして、自身の望む幸せが明確な場合、自身の持つ3つの資本によって出来る「土台」が決まってしまうため、自身の望む「幸福」は実現可能かが提示されてしまうのではないかと感じた。その場合、夢破れる人が少なからず生まれる為、その人は新たに実現可能な「幸福」を探さなければならない。しかし、当たり前だがこの本は目指せる「幸福」を提示してくれるわけではなく、あくまで「土台」の話のみである。結局のところ、自分の「幸福」は自分で探せという、普遍的で強烈なメッセージを内包している。「幸福」への道を期待させるようなタイトルで釣っておいて、突き放す。そう考えるとなかなかに残酷な本である。

 批判としては、まず(しようがないとは思うが)「幸福」の定義が示されていないこと。要素は本当に3つだけなのかの検証が無いことなど、言い出したらキリがないが、そもそも学術書でもない自己啓発系のビジネス書にそれを言うのはお門違いであろう。しかし引用も出典があり、この手の本にしてはとても誠実に作られているように感じた。

 兎にも角にも、こうして形だけでもまとめて、感想・批判を書き終えられることに、ささやかな「幸福」を感じております。ありがとうございました。

〈以上要約〉

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