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地域で楽しく過ごすためのゼミ 10月

2020年10月26日、地域で楽しく過ごすためのゼミが開かれました。

今回の課題図書は『ナウシカ解読 – ユートピアの臨界』(著:稲葉 振一郎 1996年 窓社)です。担当は大浪です。
この文章では、実際にゼミで使った要約文章を掲載します。

※以下の要約には漫画版『風の谷のナウシカ』のネタバレが含まれています

〈以下要約〉

<課題図書選定理由>

「ナウシカ解読 – ユートピアの臨界」(以後、本書)は、マンガ「ナウシカ」(※1)の解読本である。「ナウシカ」を一種のユートピア文学と捉え、作中から論点を提起し考察・解読している。

ゼミのテーマである「地方創生」はその思想・論理・手法を語るにあたって、政治哲学的な要素と切り離せない性質を持っている(※2)。「地方創生」が目指すものを一種の理想郷(ユートピア)と捉え、それの実現を考えるにあたりユートピアを題材とした本書を選定した。

<主題>

本書の主題はマンガ「ナウシカ」の解読である。マンガ「ナウシカ」が定期する問題を再構成、分析していく。その際、焦点は巨神兵の登場以降の物語に当てられる。

解読戦略としてナウシカとクシャナの行動の解釈について、大きく4つの問題設定を行い、3~6章でそれぞれ解答している。

<論旨展開>

本書の章立てと展開は以下の通り。

はじめに:課題の提示。大きく3つ。
第1章:マンガの性質の説明と、宮崎駿作品とマンガ「ナウシカ」の対比。 
第2章:マンガ「ナウシカ」のあらすじ紹介と、4つの問題設定。 
第3章:問題1の解答。ナウシカの価値観の解読から、虚構と現実、愛について考察。 
第4章:問題2の解答、及び考察。
第5章:問題3の解答。ユートピアについて他の学者の見解を紹介しつつ考察。
第6章:問題4の解答。「生」と「死」について考察。おわりに:筆者におけるユートピアの定義、及びその対立項について。

2章まで前提知識の確認と4つの問題設定。3~6章で各問題をそれぞれ解答、考察。おわりに で筆者におけるユートピアの定義、及びその対立項とする「戦争」について考察している。

(※1)著:宮崎駿 徳間書店
(※2)ゼミ第1回 渡辺氏担当:「これからの正義の話をしよう」参考

<要約>

 課題として大きく3つ提示している。

・マンガ『ナウシカ』の内的なテーマ、その思想的難問(ユートピア問題)とは何だったのか?
・その難問に宮崎自身はいかなる解決を与えたのか?
・その解決は本当に解決となっているか?

その後、課題の解決法として4つの問題設定を行い、それを解いていく。

問1:なぜ、ナウシカは「腐海」の仮設への確信によって自死を選び、その後「 青き清浄の地」を見だすことによって生きる力を取り戻すのか?
問2:なぜ、ナウシカは牧人の守る庭園で、世界の真相に到達することができたのか?
問3:なぜ、ナウシカは人間を亡ぼす可能性を知りつつ「墓所」に赴き、それを封印し真相を秘密にしたのか?
問4:なぜ、クシャナは自らの愚かさに気づきながら、「王道」への覚悟を決めることができなかったのか?

今回の要約法として、4つの問題に対する解答を要約し、その後課題に対する解答を提示する。

問1

なぜ、ナウシカは「腐海」の仮設への確信によって自死を選び、その後「 青き清浄の地」を見だすことによって生きる力を取り戻すのか?

ナウシカは今、現在存在している全ての生命を平等に愛している。大海嘯によってその愛するもの達を目の前で次々に失い、絶望に飲まれ自死を選んだ。しかし精神世界で「青き清浄の地」に辿り着き、その存在が仮設から現存の確信に変わること(虚構から存在している生命に変化)により、再び愛するものを見つけることになり生きる希望を取り戻した。

ナウシカは全ての生命を平等に愛する。その愛するもの達がナウシカにとっての「世界」である。よってナウシカにとっての「世界」を守るとは、「世界」の「正義」(※3)を守ることにつながる。

現代の「正義」の立場とは、様々な立場の多元性を可能な限り実現していくために、共有する現実世界の構造に立ち向かう姿勢である。これはナウシカの立場も同様であり、またナウシカにおける「政治」の前提である。さらに、「正義」の前提として愛がある。つまり、「世界」に愛するものが存在することが「正義」につながり「政治」へと至ってゆく。

思い違い等のコミュニケーション・ギャップだけが問題であるなら、愛は解決となりうるが、現実には一定規模以上の社会に対して無力である。その点、「正義」は愛とは分離された峻厳さを獲得している。それは、人間に扱える「公正」の装置として機能する。

ナウシカは愛と「正義」の立場に同時に立とうとし、その無理故に自死へと至る絶望に追い込まれた。

(※3)公正の意

問2

なぜ、ナウシカは牧人の守る庭園で、世界の真相に到達することができたのか?

「腐海」の真相の解明は、牧人の情報からナウシカ自身による推論によってなされるが、事前から到達できる情報はあったにも関わらず何故このタイミングなのか。それは、「青き清浄の地」に到達できるという希望が抑圧として働き、「腐海」の真相から遠ざけていたから。

牧人によって「青き清浄の地」に現人類は到達できないことが明らかになり、それ自体は絶望の情報だが同時に抑圧として機能していた希望が消滅することで、「腐海」の人為性へと思考を巡らせることが可能となった。
難民集結地での土鬼民衆の説得の場面で、ナウシカは民衆を約束・強制ではなく「憎しみよりも友愛を」と説得・啓蒙を行った。それの意味する現実的な選択肢は「腐海」のほとりでの業苦の生である。しかし、民衆はナウシカに救世主、愛と正義の具現者を見た。

「墓所」の技術の産物である粘菌でさえ、「腐海」の蟲達にとっては仲間だった。「腐海」の蟲たちが粘菌を食うために大移動を起こした動機は、「腐海」の生態系の機能を遂行するためではなく、不安に怯える苦悩する粘菌を救うためだった。生まれたての巨神兵も同様に、不安に怯えナウシカに母を求めた。ナウシカ自身も巨神兵を機能主義的に兵器として利用しようとする計算よりも先に、巨神兵の苦悩への反応が先行している。

重要なことは何が「清浄」で何が「汚れ」であるのかを識別することではなく、何が苦悩しうる存在か、その声を聞き取ることができるかである。そうだとすれば王蟲やナウシカがそうであるように、粘菌も巨神兵も苦悩を知る偉大な存在でありうる。

母たるナウシカに忠実に「立派な人」になろうとする巨神兵は、彼を利用し本心ではその死を願っている彼女の良心を突き刺す。牧人はそこを問う。愛と正義の具現者に見えたナウシカの「愛」の限界である。

牧人との対決を通じて、ナウシカは「どんな方法で生まれようと生命は同じ」「精神の偉大さは苦悩の深さによって決まる」と、彼女の生き方、基本姿勢が自覚化、言語化される。また、牧人も「業が業を生み悲しみが悲しみを作る輪から抜け出せない」世界の真実を憂いている。ヒドラである牧人も間違いなく心を持っており、「決して癒されない悲しみ」を抱える存在である。それをナウシカが理解し、牧人もまたナウシカが「決して癒されない悲しみ」抱える存在と理解したため、牧人は誘惑をやめた。

問3

なぜ、ナウシカは人間を亡ぼす可能性を知りつつ「墓所」に赴き、それを封印し真相を秘密にしたのか?

「墓所」の計画は、現実世界のユートピア主義的な社会計画が、全体主義化してしまったことに似ている。また、その社会主義体制に勝利したはずの自由主義陣営も、冷戦体制下でひとつのユートピア主義となっている。

ユートピアとはメタ・ユートピア (複数のユートピアの為の「枠」)であり、人間の世界にとっての別の可能性のことである。しかし、「青き清浄の地」はたどり着けないが現実に存在している、言わば「他者」である。

「ユートピア」の対立項は、おそらく「戦争」である。「戦争」とは、人間が世界の外側へと脱出することを不可能にしてしまう現実の圧力であり、「戦争」とはこうした圧力が強まる典型的な状況を形成する現象である。
全体主義体制は、秩序の侵害そのものを排除する警察の論理による統治を形成している。万人が警察官である社会は「戦争」状態である。

全体主義体制における「敵」は、イデオロギー的に相容れない「絶対的な敵」であり抽象的である。全体主義体制下において万人が警察官となるのは、同時に潜在的には万人が体制にとっての「絶対的な敵」だから。また、全体主義が再び浮上しつつあるように思われるのは、「戦争」状態の普遍化が起こっているから。では、「戦争」状態の外側に出ることは可能か。「戦争」状態からの脱出とは、一時であれ戦場から脱出して単に平和に生きること、あるいは逆に戦場に赴くこと。

ナウシカは「戦争」が構造化されていることを知ってなお、「戦争」の外に出ようとするが、「戦争」状態の外である「青き清浄の地」は人間とは関係のない場所である。戦争状態を克服する度に、それはいずれ挫折し戦争状態が浮上する。この反復は種としての人間が生きている限り続く。

結局は不毛であり、戦争状態こそ人間の世界のありようの本態である、とならないためには何が必要か。ナウシカにとっては、人間には関係のない場所としての「青き清浄の地」の発見がそれであった。ナウシカにとってそれは救いだが、大半の人間にとっては恐怖である。それゆえにナウシカは「青き清浄の地」を辿りつける楽園である、と人々を偽ることになった。


問4

なぜ、クシャナは自らの愚かさに気づきながら、「王道」への覚悟を決めることができなかったのか?

クシャナの仇である兄皇子の死によって、クシャナの「死」の観念のリアリティが根こそぎになり、無気力になったから。クシャナにとって兄皇子の死は意味のある死の筈だったが、そのあっけない死により、クシャナは自身の死も同様と理解し無気力になった。

「ユートピアとは人間の世界にとっての別の可能性のことである」という命題において、この「別の可能性」のなかには現在において未定の「未来」における多様な可能性のみならず、「過去」においてその時々における「もしも」を含んでいる。永井均『〈魂〉に対する態度』(※4)によれば、歴史記述を自叙伝にたとえるならば、その叙述方法は三種類のものが考えられる。

・解釈学的
現在の自己を成り立たせていると現在信じられている過去の記述:思い出
・系譜学的
現在の自己を成り立たせていると現在信じられてはいないが、実はそうである過去の記述
・考古学的
現在の自己を成り立たせてもいなければ、そう信じられてもいない過去の記述

解釈学的、系譜学的記述は、「過去」に支えられて「虚構」を防ぐことができる。しかし、考古学的記述には「可能性」もユートピア主義もないが、そのような「過去」はそれ自体で人間にとって未知なる「可能性」を形成している。それは人間にとって開かれた選択肢でも、空想でもなく、「他者」の水準に属している。「青き清浄の地」はここに属する。

クシャナは兄皇子の死によって、「死」は「生」を意味付けせずむしろ無意味な「生」に終止符を打つものなった。クシャナは生きる目標を喪失し、「真の王道を歩む者」が誰であろうと関係ないといった様相を見せる。

しかし、ナウシカの行動が、「王道」なるものが可能であるらしいことをクシャナに課題として突きつけた。しかし、ナウシカの見いだした秘密が「王道」などという言葉で表現できるものではないことには、クシャナは気づいていない。クシャナは「王道」を確たるものとして見いだしたわけではない、「普通の人々」の代表である。つまり、問題は我々自身に投げつけられたままである。

(※4)勁草書房 1991

課題1

マンガ『ナウシカ』の内的なテーマ、その思想的難問(ユートピア問題)とは何だったのか?

⇒ユートピアは存在するが、それは人間には辿り着けない「他者」の水準に属するのではないか?

課題2

その難問に宮崎自身はいかなる解決を与えたのか?

⇒解決の可能性を未来に残し、現在の人々にはその存在を提示するがそれが「他者」である可能性を秘匿する。

課題3

その解決は本当に解決となっているか?

⇒「他者」との出会いにおいて他の可能性は存在するが、出会いを通じて取り組んでいくしかない問題である。


<感想・批判>

本書はナウシカ解読と銘打ってはいるが、実際はナウシカを媒介にユートピア思想について、いくつかの論を紹介しながら考察している内容となっている。その焦点は、「理論」から「政治」へ至る過程に当てられているように感じた。言い換えると「理想」と「現実」だろう。その困難さを説明するために、ユートピアや「枠」、「メタ・ユートピア」等の言葉を使い、様々な論を紹介している。また、「生」と「死」について歴史的記述からのアプローチから、我々の認識を構成しているものが何かを説明している。

ナウシカは虚構の世界の住人とはいえ、ナウシカの「世界」での「理想」と「現実」に葛藤し、行動し、答えを示した。それは人類という枠を超えた達人的な価値観を持つナウシカだからこそ成し得たことであり、現実の我々には到底真似できるものではない。しかし、ナウシカと同じく「理想」と「現実」に葛藤し続ける我々にとって、その先の「行動」に至ったナウシカは虚構とはいえ学ぶべき点もある。

また、「現在の自己を成り立たせていると現在信じられてはいないが、実はそうである過去」が「現在の自己を成り立たせてもいなければ、そう信じられてもいない過去」へと、通常とは逆の転化をした「青き清浄の地」にユートピアのヒントのようなものを感じている。それは希望への「信仰」、一種の宗教、上手く表現出来ないが「ユートピアへと確信を持って至る途上」こそがユートピアなのではないかという疑念が湧く。

批判として、本書は考察に留まっており何か具体的な手法を提示しているわけではないことが挙げられる。結局は「人と人は違う生き物で、互いに分かり合うことは困難」に代表されるような、現代において誰もが周知の現実を小難しく表現していると断ずるは易しい。しかし、あえて好意的に解釈するならば、本書及び「ナウシカ」から学ぶべきことは「それでも本当にユートピアはあるかもしれない」と諦めず模索する姿勢であると感じる。

結局はその姿勢も大昔から言われていることであり、新しさというものはない。が、少なくとも当ゼミに於いては「より良い世界(地域)」を模索する姿勢を持つ(と思われる)人間が集まっている。そのようなコミュニティーにおいて、改めて「諦めない姿勢」を示唆する本書を選定したことは、無駄ではなかったと信じる。

〈以上要約〉

ゼミ主催あとがき

今回の課題図書は、ナウシカの作品論ということで、一見して地方創生とは関係なさそうでしたが、ユートピア=理想郷という切り口で地方創生に結び付ける形になりました。

特段、僕もユートピアというものに対して造詣が深いわけではありませんが、ユートピアはこれまでに多くの人間を魅了してきた存在であるり、ユートピアについて記述された文献というのは、時代場所を問わず様々なところに存在しているようです。

本書は、これらのユートピアに関して考察した文献を引用しつつ、ナウシカという作品を読み解いていくことを一つの目的としています。

さてユートピアの語源は「ギリシア語の ou (否定詞) と topos (場所) に由来し,どこにも存在しない場所,転じて,理想的社会,空想的社会の意(ブリタニカ国際大百科事典)」だそうです。語源にあるように、この言葉には場所という意味が含まれており、そこには空間的な広がりが存在しています。僕の知る限りでユートピアというものを思い出してみると、そこには必ずと言っていい程、自分以外の人間が存在しています。一人ぼっちのユートピアというものを僕は知りません(あったら教えてください)。どうやらユートピアには、自分以外の人間が必要不可欠なようです。勝手な推測ですが、自分以外の人間の存在が求められているからこそ、ユートピアには場所、つまり他人が存在するための余地が含まれているのでしょう。

複数の人間が存在すれば、そこには人間同士の関係があり、利害の不一致が存在することも想像できます。ユートピアを想像することは、そこに存在する利害の不一致をいかに解消するか=政治を想像することに繋がります。つまりユートピアを現実世界に実装することにおいて、政治は不可避の問題であります。ただ、現在いかなる政治形態が望ましいかという問いに対して、有望な答えというものは存在していなさそうです。ノージックにせよ、ロールズにせよ、多様性を担保することを説いてはいるものの、その先については触れていません。この本が我々に投げかけるのも、またこの問いであります。結局の所、具体的に何をどうすべきかを考えるのは、当事者である我々という事であります。

その部分の答えが出ないのならば、ユートピアや政治哲学について知ることなんて無意味だ、と思われる方もいるかもしれませんが、政治的課題の解決を考えるにあたり、この辺りの議論を知らねば、それは容易に全体主義に陥ってしまうのではないかと僕は危惧します。逆に、このあたりの事をちょっと真面目に学んでみたいと思うのであれば、この本で引用されている著作を直に当たることをオススメします(が、実際の所どれも読むのに骨が折れるので、余裕のない人は、その本の解説本を読むのが良いかと思います)。

ナウシカが好きで、そういった事柄にも興味がある人は、入り口にこの本を読んでみるのも手かもしれません。ちなみにこの本の一番の目玉は、最後に著者と宮崎駿の対談が載っていることで、そこで著者の考えの答え合わせ(?)が見られるところです。作品論(作家論)の最大の弱点は、作者が存命していることでしょう。書いた内容が如何に説得力に富もうとも、作者本人に否定されれば、それは致命傷となるからです。それでも、宮崎本人にインタビューを行った著者には、驚きと誠実さを感じるばかりです。(渡辺)

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