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彼が席を立った隙にリップを塗りなおした。恋をしている。

「ひさしぶりに仕事でこっちに来てるんだけど、終わったらメシでもどうでしょう」

彼からのメッセージが届いたスマホの画面を思わずスクショしたくなる。
「どうでしょう」って、行きたいです。
半年前に仕事の現場で一緒になったとき、好感ばかりが募った彼とのメシだ。返信をしながら、心に決めた。

今日は新しいリップを買おう。

ポケットに入れて持ち歩いているリップというのは、たいていいつの間にかどこかに失くしてしまう。ハンカチを取り出すときなんかに、ふいに落としてしまっているのかもしれない。

この日の私も、最近お気に入りだった色付きリップをどこかにやってしまい、部屋に転がっていた薬用リップでしのいでいたところだった。

仕事関係の相手に好感以上のものを抱くなんてと律しながらも、その場しのぎの無色のリップではこの夜はしのぎ切れないと思った。

お店に現れた彼は、少しよそゆきの顔で店内を見回しながら私を見つけると懐かしい笑顔をこぼした。

あぁ、そうだった。この笑顔なのだった。

仕事で毎日のように顔を合わせていた頃のそわそわした気持ちを思い出す。そして、今はもうこの笑顔に日々触れられていないことを残念に思った。

一体、誰が彼のこの笑顔を毎日目にしているのだろう?
お願いだから私と代わってほしい。

目の前の席に腰を下ろした彼が、肩と首を回しながら「どうも朝から首が痛くて。寝違えちゃったっぽいんだよね」と言う。
私は「腕枕でもしたんですか?」と冗談のつもりで返した。すると彼は、その意味が分からず「何が?」と訊き返す。

「寝違えるのって、だいたい恋人に腕枕してもらったときになっちゃうものってことになってるらしいんです。前に、友だちに“寝違えちゃった”って言ったら、腕枕でしょ? って当然のように返されて、いや全然、私完全にひとり寝で寝違えたものだから恥ずかしかったです」と説明すると、「こうやって?」と誰かに腕枕をしてあげるときのように彼が右腕を大きく広げた。

そんなわけないでしょうと言いたげに笑っていた彼だったけれど、私もつられて笑ったけれど、彼のその広げた腕に、じぶんが顔をうずめて眠るところを瞬時に想像してしまった私は、早くその腕を閉じてほしかった。

それと、冗談のつもりで本当は、彼に付き合っている人がいるか遠回しに探りを入れている感じもあって、今の彼の反応だと、だぶんいなさそうかも、なんて勝手にすこし安心しているのも恥ずかしくなった。

「ちょっとトイレ」と彼が席を立つ。その隙に、さっき買ったばかりのリップを取り出してササッと塗り直した。くちびるをすり合わせて、そのしっとりとする感触とともに確かめた。

私はいま、恋をしている。

〜fin.〜


▼前回のプロローグをまだお読みでない方はこの機会にどうぞ📚

▼▽▼▽▼おまけ▼▽▼▽▼

今回のおまけは、疲れが溜まっている時にやりたくなる(?)『ピン留めの惑星』の二人、大島智衣とつきはなこのお手軽リフレッシュ方法について、つきはなこによる漫画+αを掲載しています。

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