命と人間と次元(科学、哲学、よねちゃんエッセイ)

コンピューターは0と1の羅列から様々なモノを表現する。
0次元の世界(点)
1次元の世界(線)
2次元の世界(面)
3次元の世界(立体)
……。
0と1は、いわゆる白と黒。2つに1つだ。しかし、その膨大な羅列によって、画面から飛び出し、3次元にいる人間の生活の中に入り込んでいる。今やAIという人工知能まで活躍している。

一方、われわれ人間はどうだろうか?
3次元に生きていながら、様々な人がいる。0か1かという頑固者もいれば。ふつうの日々を願いながらもその複雑な人間模様に四苦八苦している人々もいる。それから稀に聖人君子かと思うほどの高次元から見えるのかなというほどの凄い心眼を持つ人々もいる。

コンピューターに習うならば、0か1かの頑固者も、膨大な経験の羅列によって、もっと柔軟に2次元、3次元、とステップをふんで多彩な表現をすることもできるようになれそうに思う。

しかしながら、人間が3次元までしか見ることができないように、コンピューターも扱う人々と同じ3次元までしか表現できていない。

つまり、可能性は4次元、5次元、10次元あったとしても、扱える方の力量により、その表現の限界が決まってしまう、ともいえる。

われわれ人間がコンピューターよりも、現時点で考えられる良い点は、0か1かの人間から、ふつうをのぞむ人間、聖人君子のような人間まで、多彩にいる、ということだと思う。

全てをまとめて、全てをおなじようにすることだけが、良いこととはいえない。それは、この地球の歴史を見ても、様々な動植物、命があり、自然淘汰を経てもなお、命が咲き誇り、ひとつとして同じものがないことからも、わかるだろう。

そう、命、ひとつひとつが、大切なのだ。

その中に内包された大切な心は、たとえ何次元であっても、無限の可能性をもつ。

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