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グラフィックデザイナーだった私が畑違いの場所で「あいだす」という場をつくるまで

「私にとってのあいだすとは何か/私があいだすをやる意義」
私にとってのあいだすはいろんな思い入れがあって、シンプルに説明するのが難しく、これからどうなっていくか(自分も周りの人も場も)分からない未知なものです。そこが飽きない部分だと思っています。
私がここにいるのは、いろんな人の言葉が導いてくれたような気がしており、私もあえて言葉だけで語ってみたいと思います。(謎の制約)

なので、「今」これだと思うキーワードで私にとってのあいだすとはなんなのか書きたいと思います。非常に余談が多いです。半年後は解像度が上がっているか、全く違う話をしているかもしれません。


はじめて、妄想を具現化したもの


その時興味を持っていることや面白いと思うことを夜な夜な話し合い、
時には寝かせたりしながら、ずっと1つの問いをメンバーと共有し考えること約3年。
ここ、大崎下島の久比で「あいだす」というかたちに落とすことができました。(はじまったばかりなので、かたちが無いと言われればそうなのですが)
これから自分たちを指標にして、これだ!と思えることをはじめていき、
あいだすの文化をつくっていこうと思います。

義務、規則などの決められたものを全く守れない私は今までの人生で夢中になれたことは数少なく。ここまで長い時間1つのことを考え続けたことはありませんでした。

東京で広告のグラフィックデザイナーをしていた時、
働くことこれからのデザイナーとはどう在るべきかを考える途中、今の場所では自分がどう在るべきかすらも考える余白がなくなっていることに気がつき、自分が本気で取り組めることをやろうと決意しました。

私が突発的にした選択を振り返る時、
ジブリ映画の耳をすませばで小説家を目指す雫に、お父さんが言った台詞で「人と違う生き方は、それなりにしんどいぞ。」という言葉が頭をよぎるのですが、
今はそれでもやりたいことをやらない方が後悔するなと思っているので、自分にどんな生き方が合うのか模索しながらこの場所にいます。

冒頭で言っている1つの問いに関しては不思議とアンテナがはられていて、テレビを見たり記事を読んでいても何かと紐づけて、共通点がありそうだなと自分の中にインプットしていける感覚がありました。
それを3人で共有し、他の2人の解釈で語られるとまた別の話題が出てきて、自分の思考が広く深くなっていくような気がしました。

なのでこの場でも、私たちがあいだすを生み出したように、それぞれ自分が興味があること、やりたいと思ったことに没頭し、人に話したりして妄想だったものを実現していける場にしていきたいなと思います。

人とつくる楽しさを知ったもの


私たちが共有していた1つの問いとは「自分を開放するとは何か」です。
この問いから始まり、今日までずっとそれはどういうことなのか、
それがあることで私は一体どうしたいのか。
それぞれが思考し雑談することで、お互いを理解しようとしながらチームをつくってきました。

そもそも「開放 / 解放したい」と思ったきっかけは、素直な自分でいられない環境にいたことでした。
自分がなぜそれをしたかったのか、本当は「今」何がしたいのか、よく分からなくなり、毎日乗りたくない満員電車に乗って会社に行き、やりたくもない仕事をし、体調を崩してから気持ちも壊れかけていることに気がつき、ようやく環境を変えようと決意しました。

そんなことになる少し前から、ちょっと変わった上司と勝手に動くようになりました。その上司から言われた、

「社内の評価ではなく、外の人からの評価を得なさい」

その言葉はすごくハッとされられ、見上げてみたら実は自分がいた場所がとても狭い場所だったことに気づかせてもらいました。

それから会社の外の人と出会う機会をたくさん与えてもらい、いろいろな偶然が重なって熊本で中小企業と事業をつくるというイノベーションスクールに参加することになりました。
月一で土日休みに熊本へ行き、朝から晩までいろんなバックグラウンドの人たちとアイデアを練っていきました。
そのスクールのメンターの方が初日に言い放った言葉

「それは(社会的に)やる意義があるのか」

この言葉は常に私の中にあり、今もこの言葉を大切にしています。
デザイナーという肩書きから出て、自分が一個人として専門分野を越境し関わることができると感じた経験を得られた場所だったからです。

「自分を開放 / 解放したい」

メンバーがそれぞれ刺激を追い求める中で、このあいだすの原点になった問いが私たちの中で生まれ、ひたすら雑談し続けたことで今日に至ります。
今もそれぞれの中で原点であり、何周も回ってまたそこに戻ってくるような問いなのではないかと思っています。

一緒に何かをつくる時大切なのは、
同じやり方にこだわったり、答えが同じであることではなく、それぞれが見つけたものを理解しようと努めたり、享受することだなと。
そこからまたそれぞれが他の問いを生み出していく行為そのものなのではないかなと。
その過程でお互いの好きなことや興味があること、苦手なこと嫌いなことを知ることで、きちんと議論ができたのかなと思います。

またグラフィックデザイナーだった私が、かたちで表現するということだけではなく、どうなっていくのか分からないものを自分の領域を超えて関わる楽しさを知ることができたプロジェクトです。

なのでこの場でも、関わる人たちがそれぞれの視野と視点を持ち、自分の専門領域を越境しいろんなことに関われるきっかけがある場にしたいと思います。
そうすることで他人を干渉するのではなく、純粋に新しいことを吸収していけるのではないかと考えています。

クオリティに縛られずつくることの意味を知ったもの


一年後どうなっているのか誰も分からないという不安さと紙一重の面白さがあいだすにはあると思っています。
(そして環境や周りの理解があってとてもラッキーだなと)
なぜかと言うとコンセプトやあいだすとしてのミッションのようなものはあるものの、全体としてのビジョンはないからです。
あるのはあいだすで大切にしている価値観だけなのかなと。

あとは関わる人たちがそれぞれ好き勝手やりたいことをやれば
それぞれの中にビジョンを描き、別の場所を見つけていけるのではないかと考えています。

そうなれば、あいだす自体はビジョンに囚われる必要がなくなり
目の前で起こっている失敗や脱線を思い存分に楽しめると思っています。

これは私自身、明確なビジョンを意識したことはなく、それよりも気づいたら没頭していてずっと続けていた。と言うことの方が多いからです。

あいだすのサイトにも書いているのですが、その日いたメンバーで空き家から出てきたガラクタを使い、あいだすに置きたいものをつくるというテーマでものづくりをした際に気づいたことで、
つくる前もつくった後もガラクタだったことでクオリティではない部分につっこむ余白ができ、作り手は気軽に、受け手だった人は「これはなんだろう?どうやって関わる(使う)んだろう?」
といった人が関わる余白につながったのではないかと思います。

これはここにあるものを使って、なんとなくあったらいいな、これやってみようかなくらいの気持ちで、その場の勢いでつくったことで生まれた発見だったなと思います。

今までデザイナーとして、関わってきた私としては
「つくること」はクオリティの高さを求められるものだと思っていました
ですが、完成していないこともしくは誰がつくっても程々のクオリティにしかならないものは「クオリティの高さ≒専門性」から解放されたものなのではないかと思いました。
この自分の肩書きから出て関わった経験は「完成されたもの」や「クオリティの高いもの」に囚われすぎると、それ以上に大切な何かを置いてきてしまっているのではないかという気づきがありました。

一方で、傷つけ合いながら磨き上げてクオリティを高めていく(やっぱり磨き上げたものはかっこいいし、美しさがあるし、個人的にはとても好きです)現場に関わったことで、クオリティに縛られないことの重要性を見出すことができたのだろうと思います。

なのでこの場では、完成させることや上手くできることにこだわらず
まず試してみることを大切にしたい
と思います。
楽しかったらもっと時間をかけてつくってみたり、プロの人がいたら聞いてみながらつくれる場にしたい。

次から次へと問いが生まれてくるもの


私が今暮らしている場所ではプロジェクトや事業をつくっている人が身近にいて、急に始まるプレゼンや対話の時間はとても充実感があり、エネルギッシュな場になっています。

私が思う、まめなに来る人、滞在する人は人の話を最後まで頷いて聞いてくれる人が多いなと。話のテンポがゆっくりで、グラデーションのように混ざっていく感覚があり、その延長で新しいプロジェクトが緩やかに生まれ実行さているコミュニティになっています。

そんな環境の中で私が今考えている問いは
「あいだすを、久比の人たちにとって公園のような場にするにはどうしたらいいか」

公園とはなんなのか、どういう公園が受け入れられるのか、
いろんな世代、価値観の人がどう混ざり合い場をつくっていくのか
必要なことやものはなんなのか、誰が何をしていると面白いのか、
面白ければ人は来るのか、人が来れば場が良くなるのか、
地域にとっても外からくる人にとっても、良い場とはなんなのか、、、

キーワードは「関わり方がたくさんあること」なのかなと思っています。
このキーワードの発端になったのは私が暮らしている共同生活の中のランドリールームでした。
みんなが自分の好きなように、プロジェクトを進める環境の中で後回しになるのは片付けです。
ここで生まれた問いが「どうしたらこの場所の心地よさを保てるのか」
その1つの答えが「関わり方を広げること」でした。
ランドリールームについてはまた別の記事を書きたいなと思っています。

直接場所に来て何かするのもよいし、その場にいなくともどこかでいちゃもんをつけるという関わり方があってもよい。
畑ができたら勝手に野菜や花を植えにきて育ててもいいと思う。
とにかく「イベントがないと人が集まらない場」ではなくしていきたい

そして「あいだすらしい公園とはなんなのか」と言う問いをこれから探し育てていきたいと思っています。

この場に関わる人にとって、問いを持った人がそれを探究するために毎日何かを深めたり広げたりしている場、もしくは問いを見つけにくる場にしていきたいと思います。

複雑であることを受け入れられたもの


考えるだけで進めていてもなかなかしっくりくる言葉が見つからず、人に伝えることにもやもやを抱えた3年間。
場所を使わせてもらえることになり、私たち以外の人があいだすに関わるようになって新たな問いや言葉が出てくるようになりました。

その日その場にいたメンバーでその場にあったガラクタを使ってものづくりをしたり、年末に地域の人を呼んで餅つき大会をしたり、
開放日と言って、オープン後どんな雰囲気になるのか試してみたり、とりあえずその日やっていることを黒板に書いて入口に置いてみたり。実際に試したことで、ようやく私たちが言いたいことややりたいことが腑に落ちた感じがしました。

今まで複雑だと思っていたのは宙に「言葉だけ」が浮いていたからかもしれないなと、それをなんでもいいから行動に移し、一次体験を得ることで浮いてた中から言葉がピックアップされた感じです。
一次体験をとおしてようやく本質的な部分に直接触れたのではないかと思っています。現場での実行とそこから得られる発見と説得力は大きいなと改めて身を持って感じました。

今まで楽器には興味がなかったのですが、最近ギターの練習を好きな時間にやっています。毎日続けていると前日できなかったことが、一晩寝かせただけなのに何故かできるようになっているという現象が起こります。
夜はYouTubeを見たり、弾きたい曲を聴いたりインプットして翌日に実際手を動かすことを繰り返していたら綺麗な音ではないかもしれないけどちょっとできるようになっている。
一昨日は届かなかった弦に指が届くようになっている。
これって何が起こっているか頭では理解できていないけれど、頭だけではない部分を使って必死に身体が表現しようとしているのだなと思います。

そういう感覚、やりたいと思った時にこそ手を動かし、今まで散々溜め込んでいた言葉や感覚が一気に発散できること、もしくは収束して何かのかたちを成すこと、やりたいと思いはじめるまで待つことを大切にしていきたい。

その複雑な状態でも共有し合える場に、関わる人たちと徐々に育てていく。
複雑なものをそのまま自分の中に保存しておく、意志があるものや興味があるものに関しては意外と身体は覚えていたり、ふとした時に勝手に整理されてアウトプットされるのだと思います。
なので、複雑なものをすぐに理解しようとして分かった気になるよりも、ちょっと寝かせることで身体に分解されるまで待てば良いのではないかと思っています。

なのでこの場では、複雑なことを無理にシンプルにしようとするのではなく自然と降りてくるまでゆっくり置いておける場にしていきたいと思います。

無駄そうなものにクリエイティブが在ると思えたもの


正論と効率を押し付けられて早くも捻くれてしまった幼少期。
授業中まったく集中力がなく教科書をちぎり続けた小学校時代。常にモラトリアムだった中学校時代。軸が定まらず進みたい方向が迷走した高校時代。
やりたいことができずに何がしたかったのかよく分からなくなっていった会社員時代。
どうしてそんなに急ぐのか、どうしてそんなに無駄を嫌うのか、何もしない時間はなぜ責められるのか。

天邪鬼な性格とマイペースさから周りに合わせること、ついていくことが苦手だった私はそんなことを考えていましたが、大人になればなるほど、
自分が周りと同じようにできないことや、疑問に思ってしまうことに劣等感を覚えるようになっていました。

でもあいだすを考えている中で、今まで触れてこなかった学問や思想に触れたことでそういう自分も意味があってそう思っていたり感じているのだと思えるようになりました。

私たちは無駄話や雑談といった非生産的なことを皮肉も込めて日常的に面白がってやっています。というとめんどくさそうですが。
意外とこれが考えていたアイデアと結びついたりすると大盛り上がりで
実際にその勢いで手を動かしてみたら案の定良い感じなものになっていたり、次の考えるきっかけになったりします。
ガラクタを使ったものづくりはまさにそれで、大喜利のようなユーモアを持ちながら気軽に考えるきっかけになったと思います。

時間の制約がある仕事では、いかに早く質の良いアイデアを出すかを求められます。
こういう時、一見無駄そうなことは排除されがちですが、その中にこそ今までなかったクリエイティブの種があったりするのだと思います。

なのでこの場では、それぞれが自分のペースで好きなようにできる場にしたいと思っています。
今はこれをする時間だから絶対にやらないといけないとか、この時間に終わらせないといけないとか、こういうやり方をしなければいけないとか、そんなことは考える暇がないくらい夢中になってほしい。

それがたまに混ざることで自分の思考や行動もかたちを変えていき、素敵なものになっていくと思うからです。人が決めた無駄かそうでないかではなく、自分にとって意味があるならやるべきだと思います。

今は運営として場を「つくっていく」側ですが、私も自分がやりたいことをすることで「育てる」側として関わっていきたい。
「つくっていく」との違いは自分もその生態系の中の一部かどうかだと思っています。

つくるのではなく、育てる


オープンしてから地域の方や子供たちが私たちの代わりに、外からきた人を案内している場面がいくつかあって、とても嬉しくなりました。あいだすを地域の場として徐々に受け入れてくれているのかなと。

いずれは私たちではなく、地域の人や外からくる人たちが自らの意思であいだすを運営していたり、運営なんてものはなくなって毎日誰かがいるから「在る」場になっていったら良いなと思います。

私たちは場を育てることで人が育ち、それによって場そのものが創造性のある場になっていくのではないかと考えています。
そういう場は時代が変わろうと自分の決めた価値を基準にして、必要に応じて変わっていけるのかなと。

私がいろんな人と言葉に出会い変わったように、人が変わっていく場面にいたい、そういった変化が起こる場に関わっていたいと思います。
そこに私の「開放 / 解放とは何か」の1つの答えがあるような気がするのです。
それが私があいだすをやる意義だと考えています。

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あいだすメンバーの記事

私たちはみんな異なる専門と問いを持ってあいだすに関わっています。重なっている部分もそうでない部分も共有しながらつくってきた「あいだす」をいろんな人の視点から見つめてみてください。

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