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時間を超える才能

ドイツの作家であるミヒャエル・エンデの「モモ」をいま初めて読んでいる。

私は子どもの頃から活字の、おまけに登場人物がカタカナばかりの本を読むことが

とっても苦手だった。

図書館は好きだし、文章も好きだ。

それでも、長編のストーリーをじっくり読むということが、

とても苦手だった。あらすじを読んで、結末をしれば、満足してしまう人間だった。

だから読書の経験は、実はそんなに深くも広くもない。


でも、「モモ」を1週間前から

思い立って改めて読み始めてから、

自分の脳みそが以前と違うことに気が付いた。

きちんと、文字が追えるし、

登場人物がカタカナばかりでも、ストレスに感じなくなったのが、

自分でもわかる。

脳みそが落ち着いている、という表現が一番近いかもしれない。

モモが名作だから、というのも、もちろん理由としてなくはないけど、

以前もっと年若いころに、前述の理由で1度挫折している。

単なる仮説だけれども披露してしまうと

二つある。

①スマホを落とし、かつ、「スマホ脳」を読んだ後、スマホは私の視界からほとんど姿を消した。

心のスキマを簡単に埋めてくれるいつでもそばにいる便利な道具から、通信などの最低限の用がないと絶対さわらない道具に変化した。

そのかわりに、私は自分の仕事やしたいことを、

ものすごく細かく、自分の手で紙にかくことにして、それを常にチェックして、行動したら消す、を習慣にした。

仕事や私のしたいことは1日の中にあふれていて、

スマホに時間を提供する暇がないことに、初めて気が付いた。


これはスマホだけの話ではなくて、

自分の身体を労さず、便利に簡単に心のスキマを埋める道具、

生まれた時からお茶の間の真ん中にあったテレビから始まり、

様々な受動的な娯楽、

それが今、私に本当に必要ない。


目新しい情報を探すために画面をながめる暇があったら

自分の目の前に見える家を片付けて、

家族で日常を楽しめる工夫をもっとしたいし

心打ちとけるお友達やご近所さんとコミュニケーションしたいし、

高知のすがすがしい景色の下で散歩したいし、

ふるさとの家族や友達に楽しい便りをおくりたいし

庭も畑ももっと素敵にしたいし、

土のこと、石のこと、小さな生き物のこと、微生物や植物のこと、人の心と体のこと、

自分や周り人の役に立つレベルまで

勉強したいし実践したいことだらけ。

この1か月くらいで脳に元気が戻ってきたのがわかる。

脳の資質にはほんとに個人差があると思うのだけど、

私に限って言えば、

メディアからの刺激的な発信を処理することで著しく脳が消耗してしまうタイプの人間だったんだ、

と、

自分レベルで腑に落ちている。

それを習慣としてやめたことで、脳が、以前できなかった苦手なことに、

めんどくさがらずエネルギーをふりわけることができるようになったのでは?


仮説②

下の子どもが長編の海外のおはなしを寝る前の読み聞かせの絵本にリクエストするようになった。

幼稚園では短いお話ばかりだったし、上の子は、同じ年代ではそういうリクエストはしなかったので、読み聞かせる側としても、初めての経験になっている。

今は、やはり「モモ」と同じくらいの年代に発表されているガネットの「エルマーの冒険シリーズ」を読んでいる。

挿絵は、たまにしか出てこないが、ちゃんと話を理解してきいている、のでこちらも本気でやっている。

子どもに読み聞かせるときは、話を飛ばしたりもしないし、

正確に文字を追って発音することを心掛けているので、

私が自分で同じような本を読むときも、

自然に丁寧に読めるように訓練されてきたのではないだろうか。

音読は脳にいいとは聞いていたけど、

子どもに毎日長編のお話を少しずつ読むことで、

自分の脳が訓練されてる感が、わかる。

以上2つの仮説を今、自分で持っている。


それにしても、

そんな自分の変化を「モモ」という物語で気づかされるのも、

また運命的な気がする。


「モモ」に出てくる「灰色の男たち」は、

手っ取り早く時間を節約できる、簡単なこと、に価値を置いて、

人間たちに「お金にならない時間を節約しろ」と迫る。(ちなみに脳は簡単なことがすきらしい)

節約できる「無駄なこと」はどんどんやめたり、他人に任せたり、機械にまかせたらいい、と。

私が今、心のスキマをうめる道具を手放して、自分の手で紙にひたすら物を書いたり(これは特に脳がめんどくさがってるのがわかる)、

子どもの話を聞いたり、長編のお話を毎日読むことも、

「お金にはならない時間の無駄だ」と灰色の男たちは断じるかもしれない。

私は逆に、そちら側から、抜け出ることで、

モモと灰色の男たちに出会えた。

本を、読み進めることができる脳に、なってきた。

私が生まれた時からあった私の世界は、

姿の見えない灰色の男たちが作った世界だったのかもしれない。



「ミヒャエル・エンデは天才だよね」

と上の子がいう。

私と似て、活字の物語が苦手な子だったが、

私が差し出した「モモ」を何日もかけて読み進め、読み切った。

そのあと、何度も「エンデはすごい」といった。

私が読んでいる姿を見て、「その場面は~だったよね」と言ったりもする。ちゃんと内容も覚えている。

よくも悪くもいろんなことを忘れることのほうが得意な上の子が

はっきりとした感想を持って、詳細な場面まで内容を覚えている本は、ほかにない。

まだ、灰色の男たちが出てきたとこまでしか読んでないので、子どもが「天才」と言い切る真意まではたどり着けていないが、

上の子のそんな様子を引き出したエンデは、

間違いなく「天才」である。

モモが描かれたのは私が生まれる前で、エンデが亡くなったのはもう25年も前である。

エルマーの冒険も同じくだ。

時間を超えた才能が、

今を生きる私と子どもたちに、

響く。本物は、そうなるのだ。




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