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「モモ」の読了②親子リレー読書という試み


上の子はどうやら、文字をながめる、ということに、生来興味がないようでした。

とても目のいい子です。

遠くのものも、近くのものも、動くものも、よく見えているようです。

彼女の見えている世界と私が見えている世界が多分脳の中でだいぶ違うのだろうというのは、わかります。見ることは、できませんが。

状況におうじて行動もコミュニケーションもとれる子でもあり、

じっと動かないものにあまり興味を示さない子どもでしたので、

動かない線だか絵だかわからない記号を覚えたり使ったりして

頭の中であれこれするより、

応答的な言葉を実際につかうことの方が得意でなにより楽だったようで、

文字を覚えるのも読むのも書くのもゆっくりでした。

大好きなみかんジュースを箱でかっていても、読めないので、小学校にあがるまで気が付かないでいました。

(小1の1学期は厳しいひらがなの宿題に親子ともに修羅場でした)


紙の上だけの概念や思考の学習も(例えば算数や国語の文章題)

ゆっくりながらも確実に習得しており、

車窓からみた看板をすらすら読むのを聞くと、

成長って、別人のような変化なんだなあ、と感動しております。


「モモ」を渡したのは、

それが彼女にとって一つの壁を超えるものになると、

直感したからでした。

自分がかつて挫折して読んでいない本を子どもに手渡すということは、

私にとっても実験で、

でも私が読んだ本だから、という理由で渡すより、

あなたが読み切ったら、次は私が読む、といった方が、

なんとなく彼女がやる気になる気がしたのです。


読み切ったら好きな本(漫画含む)をかってやる、という

団塊の世代の方には全く支持されないであろう

エビで鯛をつるやや弱腰な作戦でもありましたが、

苦手意識のあるものを課題にする意図とは、

苦手を根性でこんちくしょうと打ち負かしてほしいわけではなく、

自分の少ししか生きていない狭い世界のなかで決めてしまった

「文字だけの世界のことなんて、仲良くなれない、つまらない」

という見方が非常にもったいないので、

旅行につれていく感覚で、本を差し出したのです。

私は文字が好きでしたし、成績も悪くなく、ぱっと見、本を読んでる風でもありましたので(実はほぼ漫画でしたが)自分含めて周りのだれもそれを大したことだと思っていませんでしたが、

おそらく子どもの頃心の奥で思っていたのは上の子と同じようなことだったのだと今は思います。

私も文字だけの世界は実は退屈で、物語の筋を追うために読んでいただけでした。ひどいときは最終章だけ。

狭い世界にいても、私の場合特に困ることはなかったのですが、

それは単に井の中の蛙だっただけで、

世界をみるまなざしが深まることをしらずに逃がし続けているだけだったのです。

自分が反省したら、

もう、次の世代には同じことは繰り返さなくていいんです。

ちょっと奇抜でも、新しい手段でいっていいと私は思います。


彼女は少しずつ読み通していきました。

その度に、大げさに褒めました。

その方法が正しいのか間違っているのか、いまは全然わかりません。

子どもにわかりやすいように大げさではありましたが、

私が感嘆する気持ちは本物でした。


そして最後まで読み通した彼女が

「ミヒャエル・エンデは天才だ。ほかの本も読んでみたい」といったとき、

彼女がエンデから何かを受け取ったことを知りました。

私も彼女が受け取った何かを見たい。

そうして私も彼女の読了から3か月後、

「モモ」を手にとったのです。


「モモ」を読む私に

「今どこを読んでいるの?」と上の子が聞いてきて、なにげない場面の描写を私が答えると

「ああ、そこね」と詳細に覚えているようでした。

彼女がじっくり読んだ証拠でした。

そのことに感動しました。

そして私もそのように読もうと励まされました。


そして読了したとき、私もエンデから、はじめて何かを受け取ることができました。

私と上の子は、同じ文字を通した世界を共有できたのです。


今回は岩波少年文庫から新しい本を買い、気になったところに線を引いていい、というスタイルで、

読みました。

子どもが引いた線はほんの少しでしたが、なぜそこに引いたんだろう?と思わせる箇所でもありました。それも興味深かったです。

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私が引いた線を、子どもが読むことがあるかは、わかりませんが、

いつかお互いの読んだ痕跡をなつかしくたどる日も、あるかもしれません。

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