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今年はソクラテス! (6)

  6

引用から始めます。
「つまりこの人は、他の多くの人たちに、知恵のある人物だと思われているらしく、また特に自分自身でも、そう思いこんでいるらしいけれども、実はそうではないのだと、わたしには思われるようになったのです。そしてそうなったときに、わたしは彼に、君は知恵があると思っているけれども、そうではないのだということを、はっきりわからせてやろうと努めたのです。すると、その結果、わたしはその男にも、またその場にいた多くの者にも、にくまれることになったのです」

『ソークラテースの弁明』(田中美知太郎・池田美恵訳 新潮文庫 平成19年6月 61刷)

これを読むとき、ひとたびテツガクだのおベンキョだのの生真面目な縛りを離れて考えるなら、思わず笑いが込み上げて来ませんか? 上でソクラテスが言っているのは、年輩者がすっとぼけた顔でカマして来る笑い話みたいに響きます。

何かで目立つ業績があったり、難題の解決で大向こうを唸らせるとか大評判を取った……など周囲の評価が上がっている人たちが、ついつい調子に乗ってよく知りもしないことや未知の分野の話に首を突っ込み実質的なウソを言ってしまっている……というのはよくあることです。

だから今の時代のわたしたちが上の引用箇所のようなことをぬけぬけと言うソクラテスに対して
(よく言うよ、この爺さん!)
(食えねえヤツだな、このジジイは)
と思うのはまったく自然で、そうやってほんとうに特定の相手をやり込めてしまったりグウの音も出ない程に問い詰めるのは、いくらなんでも
(大人気がない)
もしくは
(あまりにも子供じみている)
ということになります。少なくとも今の時代のわたしたち……2023年の極東アジア・日本……の世間智から言う限りはそうなるでしょう。

しかしこれはもちろん、ソクラテスという人物の冗談まがいの振舞いやホラ話、あるいは取り巻きの若い者相手にからかい半分でしたヨタ話の記録ではありません。

ソクラテスは裁判で弁明しています。実は他の土地への逃亡は容易で、告訴した側もある程度それを想定に入れていたらしいとも言われますが、それにしても建前上これはソクラテスの命がかかった裁判沙汰でした。

ソクラテスを告発した人たちは本気で彼に怒っていて、その怒りは
(嫌味や嫌がらせに対してなら、同様の嫌味や嫌がらせで一矢報いればよい)
という次元の話ではなくなっていた。

するとわたしたちは、ここに何を見ていることになるのでしょうか? 『ソークラテースの弁明』を貫いている緊張感は、わたしにはこんな風に考えられます。

つまり、ここには何か
(原型が持っている一回限り……少なくともそうそうは起こり得ない形……のドラマ、恐ろしく研ぎ澄まされた対決として演じられたドラマ)
が記録されているからではないのか?

これは言いかえるとどちらも必死と言いますか
「ここまで来たら、もう半端なことでは終わらねえぞ」といった自分(たち)の正当さの必然を負って告訴した側とソクラテスとがガチンコ勝負になってしまったということでしょう。

ここで強調したいのは以下のことです。つまり大事なのは、ソクラテスを告訴した側の必死さの方だということ。

日本人は近代の世界に組み込まれて西洋を学ぶようになって以来
「哲学」
と翻訳された真実追求、あるいは思考を遠くまで届かせて納得したい営みについても、かつて中国の思想に関してそうだったように、まずはありがたく押しいただく習い性を発揮しがちです。

けれどもそれだと『ソークラテースの弁明』のような書物は最初から
「俗物 VS. 純粋に思考する人」
の構図にハマってしまい、なかなかそれ以上に踏み込んで行けません。わたし自身がずうっとそうだった、ということですけれど。

けれどもわたしは一番テツガクから遠いかも知れない次のような感想、というか常識(と信じるもの)から、考察を始めたほうが良いといまは思っています。

法廷でソクラテスに問いを投げかけられ、『ソークラテースの弁明』を読む限りはまったくやすやすとその罠にハマってしまっているように見えるメレートス、あるいはメレートスにそれをさせたヒト(びと)は当時、恐らく
(単に、ひどく恥をかかされたからもう許せなくなった)
というのではとても言い尽くせない、それ以上のものを負っていたはずなのです。


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