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ホルンの話

 1

楽器のホルンではなく子供の頃(1960年代)、
実家で飼っていたネコの話。

初めてネコを飼ったときの嬉しさは忘れられ
ない。兄と二人で
「ネコ欲しい、ネコ飼いたい」
とねだり続け、ついにある日両親が
(しょうがない)
と根負けした。その代わりネコのトイレに使
う砂をどっさり準備しろと言われ、わたしと
ニ歳年上の兄は大喜びで夜中に河原へ向かっ
た。砂泥棒である。

わたしが十歳、兄が十二歳で下着にシャツ一
枚という格好で夜8時すぎに家を出ても風邪
など引かなかった……たぶん四月の末頃だった。

名前はどういう訳だか
「ホルン」
になった。当時はうちの家族の誰も楽器のホ
ルンに触れたことさえなかった。それなのに
どうしてこの名前になったのか、肝心のとこ
ろが思い出せない。毛並は黒白の黒の方が勝
ったオス猫で、塀を接したお隣さんから生ま
れて十日ほどしてもらってきた。顔はちょう
どプロレスラーがマスクを被ってるように見
える。

実際に飼い始めて見ると、子供の手のひらに
乗ってしまうこの小さな生き物が、ピョーン
と五十センチくらい当たり前のように飛び上
がってしまう身体能力にビックリする。目を
キラキラさせてこちらのどんな小さな動きも
見逃さず、遊ぶだけ遊んで、はしゃぐだけは
しゃぐと、いきなりコテンと眠ってしまう、
その切り替わりの鮮やかさにも目がくらむよ
うな興奮を覚えた。

だが、学校にいても
(早く帰ってホルンと遊びたい! ほかのこ
とはどーでもイイ)
と熱に浮かされたように考えてばかりいたニ
週間が過ぎると、もう家にネコがいるのは当
たり前になってしまった。わたしにも兄にも。

「結局あたしが世話をすることになるんだよ」
と母親が言っていた、その通りになった。し
かしそれだけならいい。わたしはときどきホ
ルンをいじめるようになった。自分が学校で
いじめられていたからだ。ホルンはわたしに
懐かなくなった。

翌年の秋、休日に家族そろってデパートに行
ったことがあった。当時はデパートがきらき
らに輝いていた時代だから、もちろんそれは
ハレの日だった。わたしにも兄にも
(今日は何か買ってもらえそうだ)
という期待があり、両親もそれは知っていた
ろうが、わたしの要求は法外だった。

最後まで自分で組み立てられるかどうかも怪
しいほどの、大きな軍艦のプラモデルが欲し
いと言って駄々をこねたら
「こんなバカは放って置こう」
と珍しく人前で母親が吐き捨てて、そのまま
三人が向こうへ行ってしまった。

そこまで母親を怒らせたことが無かったので、
わたしは呆然とした。そうしてすぐに痛いよ
うな視線を感じた。おもちゃ売り場にいた他
の親子連れの薄笑いのような視線だ。わたし
はたまらず逃げ出しデパートを出たけれど、
どこへ行っていいのか分からずただ繁華街を
ぐるぐる歩き回った。

家に帰るしかない。幸いぎりぎり小学生でも
歩いて帰れる距離だったから、一銭も持たな
いわたしは道を確かめながらトボトボと歩い
て家に戻った。と言っても玄関の鍵が閉まっ
ているので中には入れず、庭の方から入って
物置の戸を開けた。

わたしは大きな木箱に腰掛け、物置の引き戸
を閉めた。明り取りの小窓が高い所にあるか
ら真っ暗ではないものの、ちょうどいい暗さ
になっているそこで、しばらく声を出さずに
泣いていた。

引き戸は閉まったままだから、もちろんそこ
へ誰かが入ってきた訳ではないし、小窓の位
置も高いので外から覗かれるはずもないのだ
が、わたしは何かを感じた。視線……と言い
たいところだが、たぶん気配と言うべきなん
だろう。自分の他には誰もいないはずの物置
に実は誰かがいた、と言ったら恐怖だが、あ
のときの気分はただただ不思議で
(なんだろう、これ)
というものだった。

(あ)
わたしの左斜めにホルンがいた! いくら子
供のわたしが自分一人の悲しみに浸っていた
とはいえ、1メートル先にいる飼い猫に気づ
かないということがあるだろうか? しかし
まったく気づかなかった。

ホルンは最初からそこにいてじっとしていた
のだろう。動きがあれば、さすがに気づいた
はずだ。明り取りの窓にはしっかり金網が張
ってあったから、どこかの壁か天井か知らな
いが、猫がぎりぎり入り込めるくらいの隙間
があったのに違いない。靴箱だの大小の書類
袋などが乱暴に突っ込まれた古い本棚の、下
から三段目のわずかなスペースにホルンがち
ょこんと座っていた。

わたしは動物の前でああいうバツの悪さを感
じたことは、それまでにも無かったしその後
も無い。それは、泣いていて目の前のホルン
に気づかなかった自分がこっ恥ずかしい……
という以上のものだった。第一にホルンはこ
ちらを見つめてなどいない。
(ずっと見られてたんだ!)
と思って、薄暗い空間で勝手に顔を赤くして
いたのはわたしであって、ホルンはこっちを
視野に入れてはいるが決して見つめていない。

猫はああいうとき、ああいう態度を取るもの
だ、という
(もっともらしい理解)
がやって来たのはずっと後の、中学生になっ
てからだ。その時点では、わたしはただ次元
の違いのようなものを見せつけられ、ひたす
ら小さくなっていた。
(あんなにイジメたのに、おれはいまこいつ
に思いやられている……)

明らかにホルンはわたしを慰めているのだ。
それも人間のように
(慰めてあげる)
という恩着せがましさ抜きで、おそらくはた
だこの生き物に固有の振る舞いとして
(悲しんでいるものが近くにいたら、それを
共有する)
というような態度だった。

ネコは目をつぶって見せる動作で
(敵意がないこと)
を表すという。たしかに往来にどこかの猫が
いてこちらが近くを通り抜けるとき、あちら
はよくゆっくりと目をつぶって見せる。それ
を人間の方が
(いいコだ、アタマ撫でてやろう)
などと思って近づけば、向こうはギョッとし
て後ずさるか迷惑そうに逃げてしまう。

ああいうときは、向こうが目をつぶって見せ
たらこっちも同じように目をつぶって見せれ
ばいい。それで
(敵意なし)
という相手のメッセージに
(こちらも敵意ありません)
と応えたことになる。

ともかくもわたしはあのとき、恐縮していた。
机の引出しに無理やり閉じ込めたり、縁側か
ら庭へ放り投げたりして散々いじめたホルン
が、黙って目をショボつかせるようにしてこ
ちらを慰めている。これまでどんな人間から
も受けたことがないような思いやり深い慰め
だった。わたしは頭を垂れてそのまま、やが
て家族が戻ってくるまでの多分一時間以上を
そこでじっとしていた。
(続く)

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